「知る」ことと「識る」こと

源流学の森での達っちゃんの話から続きを。
 
達っちゃんは間伐をするにあたって、木の伐り方について源流学の森で指導してくれました。
下のHPには、達っちゃんが話したことが上手に説明してくれてあります。
http://www.nw-mori.or.jp/vgs2003/6jikanme/battousagyo06_02.html
では、この説明を見て理解できればすぐにでも木を伐倒することができるか?
答えは言うまでもないでしょう。
 
さらに達っちゃんは、樹齢100年を越すような大木を伐倒するときなど、
ほんの1cm切るか切らないかで伐倒方向が大きく変わってしまう、と言ってました。
 
リンダも280年のヒノキを伐倒するところを見学したといっていました。
その時の伐り手は、このあたりまで切ってこれだけツルを残そうなどと、周りの人と相談していた、と言ってましたね。
 
ではもし、決めたとおりにちゃんと自動で切ってくれるチェーンソーがあったとして、
もしくは素人がその決められた通りに伐るとして、
その280年のヒノキは、伐り手の人が皆と相談して決めたとおりに伐れば、
狙い通りの場所に伐倒できたでしょうか?
 
その可能性は高いですが、百発百中とは行かないでしょう。
伐っている最中にちょっと風が吹いたりしたらもうアウトでしょうね。
 
その伐り手の人はおそらく、その決めたところまでいきなり切り込んでいったのではなく、
少しずつ切り進めながらたくさんのクサビを打ち込んで、
あっちのクサビを少し叩き、こっちのを少し叩きしながら慎重に切り進んでいったことだと思います。
 
280年のヒノキの伐り手はその道のプロ中のプロですよね。
なぜそのような伐り方をするのか?
では、皆と相談して決めたものはなんだったのか?
 
相談して決めたのはあくまで目安でしかなかったはず。
そのヒノキの大木を伐るにあたって、すべてを計算し尽くして伐り方を「知る」ことは不可能なのです。
もっともっと科学が発達して、伐るべき木についての詳細なデータを収集できるようになり、
高性能のコンピュータでシュミレーションを行うことができる、
そんなふうになれば計算によって伐り方を「知る」ことはできるようになるかもしれませんが。
 
伐り手はコンピュータのように計算しなくとも、今までの経験と勘で伐り方を体得、つまり「識って」いるのでしょう。
木の重心の傾き具合のほかに、風の様子、ツルの粘り具合、
時には幹の中で腐ったり空洞が出来ていたりするようなこともあります。
そんなのを見極めながら切り進めて、狙い通りの方向へ切り倒す。
こういうのを「技」というのでしょう。
 
「知って」いるのは「識って」いるのとは違います*1
「知って」して「識らない」とわかっていれば良いのですが、
往々にして「知って」いるがゆえに「識ったつもり」になってしまう。
川上村ではそんなことを思い知らされることが多いのです。
 

*1:この違いについて表わす言葉に「クオリア」というものがあります。