理由なき殺人

私はつい最近まで、死刑制度を容認すべきかどうか、判断をつけられずにいた。しかしブログのおかげで、この迷いに決着がついた。今は死刑制度は廃止すべきだと明確に考えられるようになった。
だが、ヒネクレタことを言うけれども、私の中では「死刑」と「死刑制度」は少し違う。「死刑制度」については明確に反対だけれど、「死刑」となるとまだ迷う。というよりも、「死刑」については明確に反対する理由は見つけられないだろうという気がしている。
「死刑制度」に明確に反対できるようになったのは、実は「死刑」と「死刑制度」を分けて考えられるようになったということでもある。
 
死刑容認とは、言い換えれば殺人容認でもある。これはとっても誤解を招く表現なのだけど、何も私は殺人にお墨付きを与えてよいと思っているわけではない。そんなことは誰にもできない。もちろん友人にだって上司にだって、国家にだってできない。もしできるものがいるとすれば、それは自分だけだ。自分が自分にのみ、殺人を許可することができる。自分以外の何者も、殺人の許可を与えることはできない。
 
とても不幸なことだと思うが、人は誰かを殺す理由をもってしまうことがある。一部の狂ってしまった人を除けば、誰もがそんな理由を自らの中に持ちたいとは望まないだろう。けれど、望む望まないにかかわらず、持ってしまうこともありえる。
例えば、自分にとってかけがえのない人を無残に殺された人の悲嘆。この悲嘆が復讐の怨念に転化してしまうことを、私は認めずにはいられない。
ただ、この「認める」は無条件に承認するということではない。存在は認めても正当性までは認められない。だから、このような怨念を正当なものと考え、それを根拠に死刑制度の正当化を主張する意見には、賛成できない。この怨念がいかに避けがたい、人間として致し方がないものであっても、それを正当とは認めてはならない。「致し方がないもの=正当」ではない。人間の中にはどうしようもない闇の部分・負の部分存在する。私自身の中にも間違いなく、ある。その存在を否定しようとは思わないし、また、しようにも出来ないわけど、だからそれがやむを得ず存在してしまうことは認めるしかないのだけれど、この「負・闇」を制度の根拠にすべきではない。また、「負」を「正」に転化しようとする議論にも正当性を認めることはできない。
 
では、死刑廃止論に賛成なのかというと、そう簡単にはいかなあった。賛成できなかったのも人間の「負・闇」が理由だ。つまり死刑を廃したからといって、「負・闇」がなくなるわけではないからだ。
国家の制度として死刑を認めないということになると、この「負・闇」の存在が認められなくなってしまう。廃止論者は、いろいろな理念・理論を持ち出して死刑廃止は「負・闇」を認めないということではない、と主張するだろう。そしてその理念はおそらく正しいだろう。けれど残念ながら、それ容易には理解しがたい理念であるだろう。つまり死刑廃止は「負・闇」は否定されたのだと誤解される可能性が高い。
この誤解は大変危ないと思う。「負・闇」は否定しようにも出来ないから「負・闇」なのである。表向きの否定は、裏でかえって事態を深刻化させてしまう危険がある。
だから、私は死刑制度は残っていても、実際にその制度が運用されることがないような社会なるのが一番の理想形だと考えていた。もちろんそんな理想を実現することは難しいだろうけど、死刑制度を廃止するのがその理想形に近づいていく一歩になるとは考えていなかった。
 
しかし、これは私の想像力不足だった。現実の制度である以上、それは運用され、死刑囚が処刑されていくという現実を生み出している。その現実・現場がどういったものか、その点について思いを致すことがなかった。そこに目を開いてくれたのがluxemburg卿の記事『死刑の現場とは』だ。
人を殺す理由を持ってしまうことは、どうしようもなく不幸なことだ。それと同様に、いや、ひょっとしたらそれ以上に、殺す理由なくして人を殺すことも不幸なことである。そのことを死刑執行人の苦悩(大塚公子:創出版ISBN:4041878012
 
人の作る制度に完璧なものはありえない。どこかに歪みが生じる。これも致し方がないことだが、あまりに酷い歪み方をしている制度は、そのあり方を再考すべきである。現在の死刑制度は、まさしくそのあり方を再考すべき制度だ。
国家が理由なき殺人を強要する。いくら大きな権威から死を宣告された死刑囚であっても、死刑執行人その人には死刑囚を殺すべき理由はない。けれど、制度がそんな事情を斟酌することはない。命令書が届き、職務として、その命令に従わなければならない。
どのような建前があろうとも、死刑はあくまで殺人だ。機械を壊すのとはわけが違う。死刑執行人の苦悩はそのことを証明している。殺人が忌み嫌われるのは、命を奪われるのが同じ人間だからという外形的な理由ではなく、その行為を為した人の心に深い傷を与えるという内面的な理由もあるからだ。死刑執行人たちが心に負った傷の深さは、想像を絶する。
 
中にはそんなに嫌ならそんな仕事は辞めればよいではないか、という人もいるだろう。私が同じ立場なら間違いなくそうするだろうが、自分がそうだからといって他人も同じだとは限らない。人は皆それぞれ違う。これは人間の中の「負・闇」のあり方が違うからと言い換えてもよいかもしれない。命令を拒否できない弱い人(こう表現するのに少し躊躇があるが、敢えてこの表現を使う)もいるのだ。そういった負の部分に思いがおよばない人間に、「負・闇」を正当化する資格はない。
 
正直なところ、私はいまだ「死刑」そのものの是非についての結論は出せない。だが「死刑制度」については、それが人間性を破壊する歪んだ制度であるという理由で、明確に廃止すべきだと考える。代わりに終身刑を採用すべきだ。
また「仇討ち」などの復讐形の復活も良かろう。ただ、こちらは近代国家としての根幹の部分に抵触する。私は近代国家もあり方を再考すべき制度だと考えているから、国家のあり方ともども考え直してみるのも悪くはないかもしれない。だが、現在の国家のあり方に大きな修正を加えないのなら、終身刑しかない。
 
もうひとつ。死刑制度を廃止するのであれば、同時に拡充すべき制度がある。遺族の感情を慰撫する制度だ。
死刑判決を下されるほど凶悪な犯罪に遭った被害者の遺族が人間としての「負・闇」の部分が掻きたてられるのは、どうにも致し方ないところだ。死刑制度が支持される背景には、犯人の死刑がこうした遺族感情の慰撫に繋がる考えれているのも大きい。
犯人の死刑執行が本当の意味での「癒し」になるかどうか、大いに疑問符だけれど、それが遺族をケアしなくてよいという理由にはならない。「負・闇」に堕ち込んで行く人たちは何とか救い上げなければならない。怨念を「水に流す」方法を探る必要がある。
これはかならず死刑廃止とセットにして、いや、セットでなくても早急に考え直すべき問題だ。ここを強く主張したい。