権力が偉大であれば、過ちも大きくなるものだ

たしか映画『ベン・ハー』のなかに、こんなセリフがあったように記憶している。「ローマは偉大だから、過ちが大きくなるのも仕方がない」というような言い回しだったような...。私、このセリフを聞いて思ったのが、「ならば偉大になんかなる必要はない」。今でもこのときの考えに変わりはない。それどころか、むしろ強化されている。今や国家は偉大になりすぎて、その過ちは地球生態系を滅ぼしかねないところにまで達している。「国敗レテ山河アリ」なんて長閑なことを云っていられなくなってしまったのが、現代だ。
こんなことを書き始めたのは、昨日のエントリー「9条が突きつける矛盾」についての感想(自分が書いた文章なのだけれど)を書きたいと思ったから。
途中経過を省いて結論だけ言うと、私は国家権力というものがある限り、その過ちはなくならないと考えている。どのような個人や組織であれ、過ちとは無縁ではいられない。その国家権力の最大の過ちとは「戦争」であろう。
このあたりの視点は、コメントを下さったマッコイ博士とは明らかに違う。博士は「国家>個人」という思想の持ち主のようで、その価値観には私は同意できないのだけど、かといって100%違うかというとそうでもなくどこか共感できる部分があって、その「部分」を探ってみようと思って私はwatchさせてもらっている。もう少し云えば、私は「国家<個人」と考えているわけでもなくて、「?>個人」とは考えているんだけれど、この?が何なのか、よくわからずにいる。ただの?が国家でないことは間違いない。その?を見い出すのに博士の論はヒントになるような気がするのだ(マッコイ博士、こんな読み方で申し訳ありません)。
拙ブログで展開中の「死刑論」についてもそうなのだけど、戦争の問題も国家の成り立ちと不可分で、国家論に立ち入らずに戦争だけを論じてみても無意味だと思っていて、現在の国家のあり方(=ピラミッド型)を是認するならば、死刑も戦争もなくなることはないだろう。いや、約束事(=フィクション)としてなら成立するだろうけれど、フィクションはフィクションだから、仮に成立したとしても破られる。ピラミッド型でないサークル型の社会が成立するかどうかは知らないけれど、もし、そういう社会が成立することがあるならば、そこはもしかしたら「死刑」とか「戦争」なくなる傾向の(争いが完全になくなるとは思えない)社会なのかもしれない、そんなことを考えていたりする。
ちなみに、世界で最初に死刑が廃止された日本の平安時代は同時に軍隊も廃止してしまったような時代で、どうもこの時代が「サークル型」だったのではないか、と思っている。いや、この時代だけではなくて日本は「サークル型」社会の傾向が強い国なのだけど。ここらはまだ考えがまとまっていないので、これくらい。
で、話は元に戻って昨日のエントリーなのだが、これは今の国家のあり方をすぐに変えるなんて不可能だから、今の国家の形のままでの「9条」を考えたらどうなるか、ってことで愚考してみたものである。素直に読めば武力の否定である「9条」は、素直なままではどうにも現在の国家の形とマッチングしない。だからおそらく押付けの形でしか、成立しなかった。9条の精神を生かそうと考えれば、これも国家のあり方そのものから考え直さなければならない。もうちょっと踏み込むと、今の国家の形を支えている我われの意識の形(トーマス・クーンが「パラダイム」と呼んだもの)を変えなければダメだろう、ということ。だから9条は「宗教」なのだ、の結論になる(これは「科学思想がある意味の宗教である」という意味で)。
国家は過ちを犯し、その過ちに犠牲者は避けられない。ピラミッドの上層に位置する者たちは、下層の者たちを犠牲者とすることでますますピラミッドの形を強化しようと図る(これが行き過ぎるとピラミッドが崩壊する)。制度の欠陥によって犠牲者がでることが避けられないのなら、消極的に「犠牲者」とするのではなく、積極的に「生け贄」として対処してはどうか。「生け贄」となるのはもちろんピラミッド上層部の者たちだ。こうなればピラミッドは崩壊ではなく、溶けてしまいはしないか?
まあ、ホントに「空論」である。