人間として当然のこと

一昨日、東京地裁で「国旗国家の強制は違憲」という判決が出た。当然の判決なのだけど、それに対して、例のごとくというか、小泉元首相が疑問を呈したという。

「法律以前の問題じゃないでしょうかね。人間として、国旗や国歌に敬意を表すというのは」

「法律以前の問題」というのは、そうだと思う。これは思想と良心の問題だからだ。

日本国憲法第19条  思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。

憲法の規定は、単純明快。「公共の福祉云々」なんて制限も何もない。無条件で侵してはならないのだ。こんな当然至極のことが明記してあるということは、裏にはそれが侵されていたという歴史があるわけで、第19条の規定は、「思想及び良心の自由」は勝ち取られてきたものだということを示してもいる。この短い一文の中に人類の歴史が込められているわけだ。

気になって、自民党が昨年秋に発表した憲法草案を見てみた。

自由民主党憲法草案 第19条  思想及び良心の自由は、侵してはならない。

さすがの自民党も、この条文には手をつけていない。それはそうであろう。建前でも民主主義を取り繕うなら、この条文を変えるわけにはいかない

だが、元首相は、そこに「国旗や国歌に敬意を表す」と制限をつける。「国旗や国家に敬意を表す」のをよしとするのは、「思想」である。この思想を持つことが人間として当然という発言を権力者がなし、その「思想」を元に国民の行動に規制を加えるのなら、その行動は「思想及び良心の自由」に立ち入っていることなる。
 
少し譲って、国旗国歌に敬意を表するのは「国民として当然のこと」だとしてみようか。
「自らの生まれた国を愛することは自然なこと」という主張を、私は理解できなくはない。それが国であれ郷土であれ家族であれ、また会社であれ学校であれ、自ら望んでその一員になったのであれ、望んだわけではなくそこに生まれてきたのだということであれ、自らが所属する共同体を素直に愛することができるということは、幸せなことである。
だが残念ながら、この世の中は幸せな人ばかりではない。何らかの事情で素直に自然に愛することができない人も、多数いる。そういった人は、愛せない自らの感情を「正当化」するために「愛国心は必要でない」「国旗国歌に敬意を表する必要はない」という思想を、不幸にも持つに至るかもしれない。
こういった不幸な人々を、指弾することが「国を愛すること」なのか? 「自然なこと」と「当然のこと」は違う。「当然のこと」は思想である。「愛国」の思想を基準にして、違う思想の者を排除しようとするのが「国を愛すること」なのか?
「国」という共同体の中にはいろいろな思想の人間が暮らしている。幸せな人も不幸な人も、素直な人もそうでない人も、この共同体の中にいて、思想はさまざまでも同じ国土、同じ言語を共有して暮らしている。こういった人の集まりが「国」であろう。ならば「国を愛する」ということは、偶然か必然かは知らないが、同じ「国」で生まれ育った同胞を愛するということであるはずだ。
国旗国歌に敬意を表するのを「当然のこと」とし、それができない人たちを非難する者たちは「愛国者」ではない。単に自らの「思想」を愛しているだけだ。そしてその思想を「人間として当然のこと」に格上げしてしまっている。
 
愛国心は「涵養する」ものだという。「涵養する」とはどういうことか? 「自然に無理をしないで養い育てる」ということではないのか。ならば方法は他にあろう。
不幸な者に強制しても不幸をさらに掻き立てるだけだ。「強制には反発する」のもまた「人間として当然のこと」だからだ。