懐の鳥は猟師も殺さず

「窮鳥懐に入れば猟師も殺さず」は「人の情け」をあらわす諺だ。「追い詰められて行き場を失った鳥が猟師のふところのなかに飛び込んできたときは、その猟師は自分に助けを求めてきたことを哀れんで殺しはしないものだ」とのことから、「追いつめられて逃げ場を失った者が救いを求めてくれば、見殺しにはできないのが人情」ということで、人間性善説に立つ。
今の世の中はこの諺が白々しく響き兼くような状況に陥りつつようで、最近読んだ記事で心動かされたものに晴耕雨読さんの「国保崩壊」があるが、ここでの役所のありさまは「懐の窮鳥を縊り殺す」といったものであった。新自由主義の旗の下、社会のシステムが情けも容赦もないものに変わっていこうとしている。
 
本日のテーマは「死刑」である。死刑罰が適用される範囲が拡大していく流れは社会システムが非情なものに変わりつつある流れと大いに関連がありそうだが、そのことではなくて、ここでは「なぜ人は死刑を求めるか」を考えてみたい。その論考を「窮鳥懐に入れば猟師も殺さず」という諺から「窮」の文字を省いて「懐の鳥は猟師も殺さず」としたところから出発してみる。
 
 
私は仕事柄もあって、野生の動物をよく見かける。シカカモシカウサギなんてのは珍しくもない。イノシシも多いが見かけることは少ない。それから若衆(わかいし)。こちらではサルをこう呼ぶことが多い。「サル」は「去る」に通じるということから、特に山仕事の連中はそう呼ぶ。昔は「サル」なんて発音しようものなら、ゲンコツが飛んできたものだという。
こういった野生動物を見かけたときに最初に浮かぶ考えは、「美味そう」である。特に猟をする人はそう。私は猟をしないけれども(したいと思っているけど)、仕事仲間に猟をする人が多くてよく「獲物」のご相伴に預かるので、「美味そう」の感覚が染み付いてしまった。残酷だと省みる気持ちがないではないが、それでも「美味い」には勝てない。因業なことだ。林道なんかで車の前をシカが横切ったりすると、踏むのはブレーキではなくてアクセル。まったく因業だ。
そんな因業な者どもだが、そういった連中がいつでも野生動物を食い物として捉えているかというと、そうでもない。逃げていこうとするヤツは「美味そう」だが、なかには怖がりもせず我われが仕事をしている傍をうろつくヤツがいたりして、そういったヤツを食べ物と思うことは不思議とない。しばらく姿を見せないと「ありゃ、誰かに食われちまったか」なんて気にするようになるし、そのあと再び姿を現すと素直に喜ぶ。ヤツラは猟師の懐に入ったのである。こうなると猟師といえど、ヤツらを殺そうとはしない。

ヒトの懐に入る者たち

「懐の鳥は猟師も殺さず」という新しい諺(?)からは、2つの法則を見い出すことができる。
1つは「懐に入っていなければ殺すことが出来る」。「殺すことが出来る」と「殺す」の間には大きな距離があって、「殺すことが出来る」と言う場合は単にその可能性を示すに留まるが、「殺す」ときには積極的な理由が要る。猟師の場合にはそれを食するという生存本能を満たすためだからよいとして、ヒトは自らの生存以外の理由で「殺す」ことを行う。この理由を明示することは難しいのだけれど、ここが最大の問題なので、後ほど考察を試みたい。
もう1つは「懐に入る者は種を問わない」。つまりヒトの懐に入るのはヒトに限らない、ということでだ。このことはヒトの懐がどういった性質のものなのかをよく表している。
「殺すことが出来ない」者たちを「懐の者」とすると、まず挙げられるのは「家族」。といっても最近は家族を殺す事件が多いので、家族=懐の者と簡単にはできないけれど、一応そういうことにしておく。また「家族」ということで最近取り扱われることが多いのは、ペット。ペットは当然ヒトではないが、これを「家族」として扱う人が増えている。ペットを家族として扱うことに違和感を感じる人も多いが、違和感を感じる感じないの「差」も「ヒトの懐」の性質を表している。ヒトの懐は種を問わない、また人によって大きさも受け入れる者もまちまちだ。

近代化の歴史は「人類の懐」の歴史

日本は世界に先駆けて死刑を廃止した歴史を持つ国だ。嵯峨天皇が818年に死刑を停止する宣旨(弘仁の格)が歴史的な区切りとされるが、この国は法よりも既成事実の方が先行する国なので、恐らくは宣旨が出る前から死刑の執行は停止されていたはずだ。弘仁の格以前の最後の死刑執行が何時なのか調べたけどわからなかったのだが、おそらくはアルテイとモレの処刑だったのではなかろうか。アルテイとモレは坂上田村麻呂が戦った蝦夷の首領で、田村麻呂の捕らえられて京へ連行されてた後、処刑されている*1
蝦夷との抗争は818年以降も続き、戦場では当然多くの「殺人」が行われていた。敵と戦う戦争なのだから当然という意見もあろうが、これは要は「敵は懐の者でないから殺すことが出来る」ということだ。またこの当時の「国」といっても近代国家とは大違いで、「国」を構成するメンバーに恐らく庶民は入ってはいなかった。だから「死刑廃止」といっても国を構成するメンバー以外の庶民の殺人は、行われていたはずだ。
また「人類の懐」という視点で見ると面白いのは、アメリカ合衆国。この国は現代は民主主義の総本山のような錯覚があるが、この国は実に懐の狭い国だ。黒人奴隷と先住民虐殺の歴史を未だ解決していないし、新たに対テロ戦争と称して罪のない人々の上に爆弾をばら撒いて恥じることがない。この国の行いほど「懐に入っていなければ殺すことが出来る」という法則を如実に示すものはない。
現代におけるアメリカやかつての列強による帝国主義の時代など、「人類の懐の狭さ」を示す事例は枚挙に暇がないとはいえ、それでも専制国家から民主主義国家へと国のシステムが変わって行った流れは、「人類の懐」がだんだんと広がっていった流れだということが出来る。かつては部族は民族が違えば「敵」ではないにしても「懐に入っていない者」であったのが、現代では一応理念においては全人類を「懐の者」と看做しましょう、ということになりつつある。
今後も基本的にはこの流れが広がっていく...、かどうかは微妙だ。懐拡充の流れを阻む動きが大きくなってきているからだ。その動きを「新自由主義」という。この新自由主義が「グローバリズム」というイメージだけは大きくなりそうな言葉とともに広がっているのは、歴史の皮肉か。

懐具合の違い

そもそも「人類の懐」や「国家の懐」なんてものがあるのかという疑問もあるが、それは措くとして、「人類の懐」とは「人間は皆平等」ということであり、また「国家の懐」とは...? 「国家の懐」って何だ? 例えば戦前の日本ならば「天皇の臣民」ということで「国家の懐」を定義するのは簡単だが、民主主義国家においては「国家の懐」を明示するのは難しい。「人類の懐」との差があまりない。ただ民主主義においても国家という制度は存在するわけだから「国家の懐」というものがあるとしよう。
そうすると「死刑制度」とは「国家の懐」と「ヒトの懐」の違いが生み出すものだということができよう。またこの視点から行くと「戦争」*2だって「人類の懐」と「国家の懐」の差から生み出されるものだともいうことが出来るかもしれない。そして民主主義国家間で戦争が少なくなってきているという現象は、民主主義においては「人類の懐」と「国家の懐」が似通ったものだということが関係しているのかもしれない。また民主主義国家において死刑廃止が進んでいるという現象も、「人類の懐」「国家の懐」「個人の懐」の共通化が進んでいるということがあるのかもしれない。
このように論を進めてくると「人類の懐」「国家の懐」「個人の懐」の共通化は善きことのように響くが、実際にこれは望ましいことであろう。そしてこの共通化を図ることが教育の本質であるとも思う*3。今国が行おうとしておる「愛国心教育」は国と個人の懐具合の共通化を図ろうとするものだが、人類の懐との共通化までも視野に入れているかどうかは、大いに疑問だ。
おっと、死刑の話だった。上にも書いたが、「ヒトの懐」は個人個人で差が大きい。ここが死刑の議論に大きく影響していると思う。死刑廃止論者と賛成論者の違いはこの懐具合の違いだとするのは単純すぎるかもしれないが、まったく的外れでもなかろう。特に注目すべきは犯罪者の扱い。犯罪者を懐に入れるか否かで、死刑に対する立場が大きく違うようだ。
ここでまた、あの事件を例にとってみよう。私は見ていないが、加害者の父親のインタビューがTVにて報道されたことがあったそうだ。そのTVを見た印象として「この親にしてこの子あり」という印象を持たれた人が多かったらしい。こういう印象を持つ人はたいてい死刑賛成論者だ。「この親にして...」という言葉のニュアンスはわかると思うが、こういった印象を持つ人は最初からその人の懐から加害者少年を除外している。少年が親から受けたであろう理不尽な扱いに思いを致すことはしない。被害者と遺族が犯罪者から受けた扱いについては思いを致すことはあっても。被害者や遺族は懐の中に入るが加害者は入らない。その差は明確だ。
なぜ被害者とその遺族が入って加害者が入らないのか? また両者とも入る人もいるし、逆に加害者だけを入れる人もいよう。その基準はまったく人それぞれ、千差万別。猟師の獲物に対する懐具合と同じ。明確な基準などないように見える。ただ懐は小さいよりも大きいほうがよかろう。

殺す理由

これも上で書いたが、「懐に入らない」は「殺してもよい」であって「殺す」ではない。「殺してもよい」が「殺す」になるには理由があるはずだ。しかしこの理由も人それぞれ、千差万別のようで共通の法則はなさそうなのだけど、それで話が進まなくなるのでここでは無理にでも話をつくることにする。また人が懐外の者の死を望む、死刑を望むことの共通点も探ってみる。
話をはじめるに当たって確実と思えるのは猟師の理由。生存のため。食べるため。これは明確だ。遺族が加害者の死を望むのは「復讐の感情」のためだが、この「復讐の感情」というものが何なのか、これも「生存のため」という観点から考えてみる。それから遺族でもなんでもない、事件に直接関わりのない者たちが死刑を望む感情。これもどこか復讐の感情に近いものがある。第三者は、直接ではないが間接的には加害者と関わりがあると感じているということなのだろう。

ヒトは関係性を見い出す種

ある木に木の実がなっているとしよう。この木の実はいろいろな種の好物で、虫も鳥もサルも、当然ヒトも食べるものだとする。虫や鳥やサルが認識するのは、その場に木の実があるかないか、その事実だけであろう。あれば食べるし、なければなにも感じない。それだけだ。ところがヒトは違う。ここに木の実があったということを記憶している*4。そしてその記憶から、なくなっていた場合にはその原因を追究する。これがヒトの意識の作用だ。
虫や鳥やサルは、ある木の実を取ろうとする競争相手がその場にいれば、それを排除しようとはする。けれど、その競争相手を死にまで至らしめることは少ない。競争相手が逃げるなりしてその場からいなくなれば、もうその競争相手は彼らの認識の中から消えるからだ。それ以上の追及はない。ところがヒトはここにおいても他の種とは違う。競争相手がいなくなってもヒトの認識にはまだ競争相手の存在が残っている。そして予測をする。この競争相手が生存していれば、また私の収穫が脅かされる、と。
ある種の個体にとっての競争相手は、他の種の個体ばかりでなく、同種の個体も含まれる。これは人にとっても同じである。ヒトは社会を営む種であるから、自らの生存に必要な個体(懐に入る者)は大切に感じるがそうでない個体(懐外の者)は競争相手であって、彼らを「殺す」ことは自らの生存の確率を高めることに繋がる。よってヒトは「死刑」を望むようになる。
また遺族の復讐感情は次のように説明できる。加害者は自らの生存に必要な個体を害し、自ら生存を脅かした。この事実をもってヒトは加害者を自らの生存を脅かす脅かすものとして認識する。それが意識上には復讐感情として現れる*5
一応、ヒトは生存を求める場合においては「殺す」ことを望むというところから仮説を組み立ててみたが、この仮説が万全なものでないことはいうまでもない。ヒトは生存に関係のないところでも「殺す」からである*6

死刑廃止論の行方

与太話の上に与太話を重ねるのは恐縮だが、恥さらしのついでということで話を進める。
上の仮説を元に死刑廃止に至るための条件を考えてみる。
1つは「懐を広げる」ことである。「人類の懐」「国家の懐」は広がりつつあるようだが、そもそもこんなものがあるのかと疑問を投げかけたとおり、これらは所詮はフィクションなのかもしれない。これらがフィクションで「ヒトの懐」が自らの生存追及を根拠としているとするなら、フィクションを基にしての死刑廃止は死刑と逆の意味での暴力でしかない。ただこれも死刑廃止の可能性ではある。
「ヒトの懐」を教育によって広げようとする試みも、それが生存の可能性を狭めるもの、もしくは一部の者の生存を図るものならば、これはカルトの行う教育と変わらなくなる。教育はひとりひとりの生存の可能性を高めるための理想を掲げたものでなければならないが、遺族が復讐感情を喚起されるような出来事を撲滅できないとすれば、結局、理想と現実というところに問題は行き着くだけだ。
あともう1つ可能性があるとすれば、「懐外の者」=「生存の競争相手」という認識をひっくり返すことだ。教育でそれが行うことが出来るのか、それとも環境条件が整えばよいのか? それともそんなことは不可能なのか? 

*1:田村麻呂は時の桓武天皇に助命を嘆願した。このことは戦いを通じて田村麻呂がアルテイやモレを「懐に入れた」ことを示す

*2:戦争という制度で行為そのものではない。戦争だって国際法上は合法だ(ただし自衛戦争に限る)

*3:luxemburgさんがUTSに寄稿したコラム『まだ見ぬあなたを愛したい』にて、luxemburgさんの恩師先生のお話として紹介されていた「自分や身内、自国を愛することなどのために学問はいらないが、遠く地球の裏側にいる人の苦しみに思いをはせ、自分の生活がその人たちの苦しみとどう関連するのか、そのメカニズムを明らかにしてくれる、それが学問だ。その人たちの苦しみが目の前のことのように見えてくる、だから学問はすばらしいし、それを見せてくれるものでなければ学問ではない。その人たちを愛し、その人たちを愛する機会を与えてくれた学問を愛し、それをせずにはいられない自分を大いに愛しなさい。」 これこそが「懐」の共通化を図る教育の本質であろう。

*4:ここまでは鳥やサルも認識できるのかもしれない

*5:この仮説は私が組み立てたものだけども、おそらくはもう既に誰かが同じような考えでもっと緻密な説を組み立ていると思う。もしご存知の方がいれば教えてください

*6:これは「遊び心」(=生命力の余剰)という観点から説明できるかも、と考えてはいるが