「変わる」ことは「生きる」ことの本質(3)

「変わらないもの」は本当に変わらないか

前回の記事で、人は「変わらないもの」を得たときに強者となる、という議論を行った。今回は、その続き。最初、ここでは「変わらないものを得て強者になる」ということが異常なことである、ということから議論の続きに入るつもりであったが、これは今回は省くことにする。また、議論展開の方向性も(1)(2)とは若干、違ったものにしたい。理由は(2)で頂いたコメントを見ていただきたい。
 
人の持つ意識は「変わらないもの」を求める。それこそが意識の本性である。そういう本性を持つが故に、「変わらないもの」に親和性を示す。ところが生命は流転する。意識は生命があってこそ成り立つものであるから、生命の流転に影響されずにはおれない。その影響は、意識にとっては「気がつく」という形をとって現れる。変わるまいとする意識が変わる生命に引きずられて動く。生命の動きは滑らかだが、意識の動きは段差を伴ったものになる。
「変わらないもの」はない、と喝破したのは仏教だ。「諸行無常」。一方、キリスト教などの一神教は「神」という存在を想定することで「変わらないもの」の究極の形を示した。ただし、「神」が存在するか否かの証明はいまだなされていない。
また脱線した。
光市母子殺害事件の被害者遺族の「変わらないもの」は、ほんとうに変わらないか?
「諦めるしかない(=変わるしかない)」といったときに、違和感を感じる人は多かろう。頂いたコメントからもそれはわかる。では逆に問うてみよう。彼が変わることはありえないか? 彼は彼が生ある限り、彼のかけがえのない妻子を、ずっと何の変化もなく彼の心に抱いていられるか?
そうあるべきだ、と考える人は多かろう。「諦めるしかない」に違和感を示す人は、その人が意識しているかどうかは別として、そう感じているはずである。であるから「諦める(=変わる)」に違和感を感じる。
けれど、彼が終生変わらずにいられるなどとは、誰にも断言できないはずだ。彼の心情に共感を示し、諦めるという道を示すことに違和感を感じる人ですら、自らを省みて、絶対に変わらないと断言出来る人がどれほどいるだろうか? 
ここで考えてみて欲しい。なぜ、「変わらない」と断言できないのかを。
「変わらないでいるべき」とする理由は、いくらでも見つかるだろう。「意識」は「変わらないもの」を見つけてくるのが得意技だ。それが本性だから。けれど「変わってしまうかもしれない」理由は「意識」にはなかなか見つけられまい。それは「意識」の一段奥にある「生命」の本性だからである。

「弱⇒強」となるにはわけがある

生命は環境に対応して変化していく【弱】。一個ないしは多数の生命と環境は互いに影響を及ぼしあう関係であるから【弱】でありなおかつ【強】であるというのが正確なところなのだろうが、議論がややこしくなるので【弱】の面のみを考える。一方、「意識」は「変わらないもの」を求める。では「意識」が直ちに【強】かというと、そうではない。正常の状態では意識も移り変わっていくからである。
ところが、環境から与えられるストレスがある一定のところを越えると、生命の一部は変わることをやめてしまう。これがどういったことか、事件のことと考え併せれば容易に想像できよう。そして変わることをやめてしまった生命と「意識」が結びつき、【強】に変化する。
この【強】が大きな影響力を発揮するのは、意識が「変わらないもの」を容易に想像することができるからである。だからわかりやすい。その「わかりやすさ=変わらないこと」を背景にするから「意識」が反対することが困難になり、ますます大きな影響力を発揮する、といった構造が生まれる。【強】の構造である。
ところで【強】には別種の【強】もある。環境に影響を与えるということではこちらも【強】であることには変わりないが、「意識」とは結びつかずない【強】、衝動的になされる別種の【強】である。(2)では、そこを明確に区別せずに使ったが、ここで修正させていただく。こちらの【強】は「変わらないもの」を求める意識とは結びつかないから一過性ですぐに【弱】に戻る性質のものだが、自己弁護に「意識」を用いると持続性の【強】となることもある*1
また大きなストレスはいつでも【強】を生み出すとは限らない。場合によっては意識と結びつかず、さらに【微弱】となることがある。むしろケースのほうが多いかもしれない。こういった場合、鬱病といったような状態に陥ることになる。
こういった【微弱】のケースですら、これが「異常な状態」であるということが認知されるようになったのは最近のことである。【微弱】の場合は意識に結びつかないから、当人に自覚がないというケースも多くて、それが認知を遅らせたということもあるが、この認知を阻んだ最大の要素は、実は「意識」である。
さらに【強】のケースは、いまだ「異常な状態」とは認知されていない。というのは「意識」は一見、正常だからである。けれども「生命」は一部動きを止め、トラウマとなっている。症状の出方は【微弱】と正反対だが、生命が「異常な状態」であるということではどちらも同じなのだ。

遺族を【強大】としてしまったメディアの罪悪

私は以前のエントリー「死刑は廃止すべきか否か?」において、「最大の問題は「報道されたこと」」と主張した。ここでは再度、その主張を繰り返したい。
彼がまだ【強】の状態で留まっていたならば、カウンセリングを受けることにより再び彼の生命の一部が流転を始めることに導くことができる可能性は高かったかもしれない。ところが今や彼は【強】の状態を通り越し【強大】となってしまった。彼の【強】が社会性を帯びてしまい、【強大】という状態に持ち上げられてしまったのである。もちろん彼を持ち上げたのは、メディアである。
彼は今や、犯罪被害者救済運動の主導者、一種のヒーローである。そういった彼には、「裁判が決着しても、犯罪被害者救済の為に戦って欲しい」などという、世論の極めて得手勝手な願望が押し寄せるようになってきている。
彼が彼の「変わらないもの」を「水に流」したあと、彼の生命が「異常な状態」を脱し、流転を始めたその方向として「犯罪被害者救済への戦い」に身を投じる、というのであれば、それは大いに結構なことだ。これは、彼にとっても彼に期待する者にとっても、望ましい状態だといえる。だが、彼に寄せられている期待とは、そういったものだろうか? 私には、どうにも違うようにしか感じられない。
彼をヒーローとして持ち上げる者たちの期待は、彼が彼の「変わらぬもの」を心の中で抱きしめた状態のままヒーローであり続けること、ではないだろうか?
彼らは、遺族の心情に共感を示す素振りをする。「諦めるしかない」との指摘を「非情・冷酷」だとする。彼らは遺族が耐え難きものに耐えている姿を賞賛し、彼がずっと絶え難きものを耐え続けることを求める。私には、この「期待」こそが「非情・冷酷」なものに思えて仕方がない。
彼らは極めて身勝手なのである。遺族の心情・心の痛みというそもそも共有することが不可能なものを自分は理解しているという偽りの立場から、その痛みから何とか逃れてくれればと道を示す者を攻撃する。彼らは何時までも遺族に痛みを感じていて欲しいのである。彼が痛みを感じている姿こそが、彼らにとっては喜びなのである。このことは、加害者に死刑を望むどころか、虫けら扱いして止まぬ彼らの心根と重なる。
罪はそれだけではない。遺族が生命を流転させることを阻むだけではない。彼の「変わらないもの」に社会性を持たせて【強大】としたということは、これは何らかの社会的な結果をもたらすということである。その結果とは、加害者が死刑に処されるということである。
彼らの妨害にもかかわらず遺族の生命が流転を始めたとき、これは先に述べたように誰にもそうならないと断言できないことなのだが、彼の「変わらないもの」の社会性がもたらした結果を、流転した彼の生命がどう受け取るか? ここを思いを致すと、彼はひょっとしたら変わらないままの方が、つまり痛みをずっと感じている状態の方が、気がつかずにすむだけ幸せなのかもしれない、そのように錯綜して救い難い状態になるのでは...、危惧は深まるばかりだ。

だれも他人に「変わること」を強要できない

以上のように愚考を進めてきたわけだが、もとより私はこの愚考が必ず的中すると考えているわけではない。それは、わが愚考の過程が間違っているということが大いにありえるからであるが、仮に思考の過程に誤りがなかったとしても、彼が私の考えのように進んでいくとは限らない。それは彼が「生命」であるからで、「意識」には生命の流転先を予測することは不可能であるからだ。
「諦めるしかない」というのは、「諦めなければならない」ではない。生命の流転先を予測することは不可能という認識に立てば、諦めを強要することに意味がないことが理解できよう。他人にできることは、道を指し示し彼が気がつくことを促すこと、けれど、最終的に彼が「気がつく」かどうかは誰にも保証することはできない。彼がどう流転するか、他人は決定できない。
このことは恐らく誰もが本能的に知っているはずである。人が他人を自分の思いのままに操ろうとするとき、誰もがそこに大きな「悪」を感じるはずだ。なぜこのことが「悪」なのか? 仮に操ろうとする方向が良き方向であるにしても、操ろうとすることそのものが「悪」であるとの感触を消し去ることはできない。「意識」が「生命」のあり方を決めようとする企ては、これは生命に対する冒涜なのではないか、私はそんなことを考えている。
では、罪を犯したものが更生することも悪なのか? ひょっとしたらそうなのかもしれない。罪人とはいえ生命の流転先を決定する、それも社会に都合に合わせて強制的にとなると、「悪」の臭いが漂うような気がする。いっそのこと罪を断罪し、生命を断ち切って流転を停止させてしまう、そちらの方がまだマシか? しかしこれもまた違うと感じる。
生命には生命の「あるべきようは」があると思う。更生とは、何らかの原因で異常をきたしてしまった生命を元の正常な流れに戻すこと、ではないか。 どこがどうなれば生命が正常ということになるのか、それを「意識」が見極めることは難しい。身体の健康ということにおいて、「病気」は発見できても「健康」は提示し難いのと同様に。けれど、なんとなく、意識はできないかもしれないけれど、「正常な生命の流れ」を想起できるような気はしないだろうか?
「意識」は孤独である。生命の流れを捕まえることはできないし、また他人と完全にシンクロすることもできない。故に人は孤独なのだが、生命はそうではないのかもしれない。人が繋がろうとするのは、実は生命が繋がっているからであり、「意識」はそれを後追いする。けれども「意識」では繋がりきらない...。

おしまい

またもや最後は話が飛んでもない方向に逸れていってしまった。結論も何もでていないけど、「「変わる」ことは「生きる」ことの本質」というタイトルで書くのは、これでおしまいにしたい。死刑廃止論についてはまた別の機会に愚考してみたい。
 
そうそう、ひとつだけお断りしておきたい。上の議論で「彼ら」として非難の矛先を向けている対象に、拙ブログのコメントを頂いている方のどなたのことも想定していない。コメントを寄せていただいている方の中には「彼」に共感を寄せる方もおられるが、そういった方でも「諦めるしかない」と主張する私を感情的に攻撃してくるわけではないし(私のほうがむしろ、窘められていたりする)、加害者を虫けら扱いするようなこともない。典型的な「彼ら」は予想に反して(期待に反して?)、今のところ拙ブログには姿をみせていない。

*1:これは(2)での沈丁花さんの指摘を容れて、このように修正したものです