「変わる」ことは「生きる」ことの本質(2)

加害者について

流転こそ生命とするならば、加害者についてもこの視線から考察しないと、片手落ちになる。彼がどれほど憎まれようが、加害者とて生命ある者だからだ。
私も本件の加害者が、知り合いに宛てたという手紙を見たことがある。いや、報道でその手紙の一部を見たことがある。あそこから伺える態度は実に嫌悪すべきものであった。心ある者であの態度に共感するものは少ないであろう。
だが、いま少し立ち止まって考えてみたい。変わることが生命の本質であるなら、加害者のあの姿は、変化して行った果ての姿ではないのか。彼は生まれながらにして、あの姿であったわけではないのではあるまい。
生命ある者はみな、生命から生まれてくる。犯罪の加害者も被害者も、そこは同じ。この世に生を得た瞬間、彼、彼女には無限の可能性があるはずだ。それとも加害者は最初から加害者たるべくして生まれてきたというのか? 被害者は最初から被害者になるように運命付けられて生まれてきたというのか?
私は運命決定論者ではないから、生まれてきたばかりの者は純真無垢だと考える。ゆえに、教育が大切だと考える。「愛国心」なるものを一方的に刷り込むことは危険だと考える。
生まれたての加害者が純真無垢であるなら、現在の加害者の姿は歪められた姿であろう。誰に? 周りの者たちに、だ。これは私の推測ではない。本件の加害者に限らず、歪んだ姿をした加害者は幼いころの成育環境に問題のあった者が多いという。

少年法の理念と死刑廃止論の根拠

子どもは自らの環境を選択できない。そして子どもは周囲の環境から決定的に影響を受ける。子どもはある一定の年齢までは己の立ち位置*1に責任をもてない。ゆえに立ち位置から生ずる行動に責任をもてない。これが少年法の理念というものであろう。
いや、己の立ち位置に責任を持てないのは子どもばかりではない。大人だってどの方向を向いたって自らの立ち位置に責任を持てる者は少ない。まずいないと云ってよかろう。特に心の傷・トラウマがあったりすると、その方面については時間がキズを負った時点で停止してしまうようなことがよくある。しかしながら、一々個々の事情を斟酌していては秩序が成り立たないので、「お約束」としてザックリ決めてしまうのが法というものであろう。成人(日本では二十歳)を越えたら大人と看做す。科学的な理由も何もない。ただそのあたりが適切だろう、それだけのことだ。
視点をもう一度個々の事情の方へ戻すと、法がいい加減に区切った線引きに関係なく、人は変化していく。体も心も変化する。キズを負うと変化しないこともあるが、生きている限り、変化の可能性はある。更生の可能性はある。
この、生きている限り変化するという点――生命の本性――こそが死刑廃止論の最大の根拠だと私は考える。いや、ちょっと違う。私は少なくとも現時点では死刑廃止論者ではない。まだ死刑を廃止してよいものかどうか、自らの立ち位置を決めかねている。だから、このように表現するほうが正確だろう。死刑廃止論に立つならば、生命の本性を最大の論拠にすべきだと考える、と。
ここで少し寄り道して死刑に対する現時点での私見を少し述べると、廃止論の根拠である「残虐な刑罰」「冤罪の可能性」という論拠は弱いと弱いと感じている。冤罪はあってはならないことだが、あってはならないことが起こることが世の中で、ゆえに不条理なのだし、残虐と言ったってこれは感情論で、加害者の生存を許すのは残された遺族には残虐な仕打ちだ、との反論に抗しきれないと感じる。暴力装置である国家への抑制としての死刑廃止論も、秩序維持の為に国家が暴力装置でなければならないということを考えると、「卵が先か鶏が先か」という議論のように思える*2
結局は以前に指摘しとおり、その時代時代にフィクションに拠るしかない、ということになるのだが、この結論に満足しているわけでもなくて、フィクションを超克する論理が欲しいと感じている。そしてあるとするならば「生命の論理」ではなかろうか、と感じているわけである。

「弱」が「強」へ転換するとき

本題へ戻って、生命は変化することが本質という視点から、加害者と被害者遺族について見てみる。
生命である人間は環境の影響を受けて変化するものであるが、同時に人間は環境に働きかける生き物でもある。環境から影響を受ける立場であるときを【弱】、環境に影響を与える立場であるときを【強】として、ごくごくおおざっぱにだが、考えてみる。
加害者少年は、選択の余地なく不幸な生い立ちの元で育った【弱】。そして自らの立ち位置に責任が持てる年齢に達する以前に犯罪を犯した【強】。一方、被害者遺族は最愛の妻子を無残に殺害された。これは加害者少年同様、選択の余地がないことなので(弱)なのだが、問題はここからで、犯罪が起きた時点では【弱】であった被害者遺族は、現在でも【弱】なのか? 彼の被害者遺族としての発言は明らかに環境に影響を与えた。ゆえに【強】。何より、加害者に向けての「残虐さを知れ」との言葉は弱者の言葉ではない。明らかに強者のものだ。犯罪の時点では【弱】であったはずのものが、入れ替わってしまっている。
このことは加害者と被害者遺族が置かれた現在の境遇を見てみても明らかだ。加害者少年は当然のことながら留置所で自由を奪われた状態だ【弱】。一方被害者遺族は、彼の発言が一々メディアで大きく好意的に取り上げられるし、裁判にまで影響を及ぼす。明らかに【強】である
加害者少年が「弱⇒強」となった理由は定かではない。この定かでない点にこそ、彼の犯罪の原点がある。この点を完全に解明することは恐らく不可能であろうが、刑事裁判という制度に課せられた役割りは出来うる限りこの点を解明することにあるはずだ。私には詳しくはわからないけれども、先の最高裁の判断は、この点の解明という意味では不十分なものだったようだ。

「変化しないモノ」を背景にする「強者の論理」

被害者遺族が「弱⇒強」へ転換した理由は明らかである。それは「変化しないモノ」を得たからだ。「変化しないモノ」とは...。
このことを指摘する前に、PCのキーボードを叩いている今の私の心情を告白しておきたい。正直、これを指摘するのはイヤだ。ひょっとしたら死者への冒涜になるのかも、と思う。こういったことを勝ち誇って指摘しようなんて気は毛頭ない(信じてもらえないかもしれないが)。イヤだけど、ここまで来た以上はせねばならんという気持ちのほうが強い。
「変化しないモノ」とは、彼の殺害された妻子である。
彼が得た「変化しないモノ」は非常に強力な武器である。彼はこれを錦の御旗として掲げ、発言する。彼の錦の御旗に抵抗することのできる人間は、誰もいない。ここに反旗を翻そうものなら(今、私が翻したが)、とたんに非難の礫が雨あられの如く飛んでくるだろう(やれやれ...)。
ここで少し話を一般論に移すが、「変化しないモノ」=「絶対的なモノ」を得た者は、まず例外なく強者となり、その強者の論理をふりかざすことになる。
まず思い浮かぶのが宗教。絶対の真理と称するモノをふりかざし、強者として振舞う。かつては生まれに縁る「身分」なんてのもあった*3。今現在猛威を振るっているのがカネ・マネー*4である。これを多く所持するものを「勝ち組」と称し、褒め称える風潮になっている。他に小さなところでは、会社の上司とか。まだまだいろいろあるだろう。
付け加えておくが、「変化しないモノ」=「絶対的なモノ」とは真に絶対的ということではない。多くの人が信じる限りにおいて、という限定付きである。宗教然り、身分然り。マネーだってそう。これは経済学を多少でも知る者なら常識であろう。
もうひとつ付け加えると、「変化しないモノ」が「絶対的なモノ」となり易いのは、人間の「意識」というもののお陰である。意識は変化を切り取り縁取りを与えて、変化しないモノに変換する。プラトンの「イデア」という発想がわかりやすい。
さて、ここまで一般論を展開しておいて話を本筋のほうへ戻すと理解できると思うが、要は、被害者遺族のふりかざす論理の構造は、ごくごく普通にみられる「強者の論理」に過ぎないのであって、そこへ反発し難いのは錦の御旗(=多くの人が信じている)があるからなのである。

「強者の論理」に寄り添う者たち

このことは、次のことからも分かる。錦の御旗に反旗を翻した者への反応である。
彼ら(=強者の論理に寄り添う者たち)は錦の御旗(=彼ら絶対と崇め奉るモノ)に反旗が翻されると、彼らの絶対的なモノが冒涜されたと感じ、反射的に攻撃に出る。この攻撃が何とも下品極まるもので、まず反旗を翻した者を人として認めない。
この反応は、本件に派生した死刑廃止論者へ攻撃、一部の国を擁護するものへの攻撃、特定の人物の権威を貶めようとする者(彼らがそうかんじるだけだが)へのサヨの攻撃、皆、同じ特徴を持つ。
この者たち、下世話に云えば「トラの威を借るキツネ」なのである。
 
続く。

*1:「立ち位置」という言葉が適切かどうか、自信がない。他に言葉が浮かばなかった

*2:このあたりの議論はluxemburg卿の『お嬢さま、死刑廃止論を考える』が興味深い

*3:現在でも国と地域によってはまだある。たとえばインド

*4:カネはそもそもからして「変化しない」という性質を備えている。自然は全て変化するものであるのに対して、人間の意識が作り上げたカネ・マネーは変化しない。金(カネ)が金(きん)なのは偶然ではない。もっとも変化の少ないものとして金属の金(きん)が金(かね)を実体化するものとして選択された