倫理、法治主義、道義的責任

これまた先日のエントリーの尻拭い。「それってバッシングじゃないの?」のエントリーで、福井日銀総裁への道義的責任追及の問題と、安倍官房長官統一協会祝電事件の2つを中途半端に取り上げた。

      

あべしの件については「木と森、空気、それに太陽」で一応ケリをつけたのつもりなので、その続きといういうわけではないのだが、頂いたコメントに倫理についての指摘があったのと、FAIRNESSさんの「法律とかルールとか倫理とか」という記事にも引っかかったので、「倫理、法治主義、道義的責任」ということで、少し書いてみることにした。
 
政治家や日銀総裁など高い地位にある者は高い倫理観を要求される、というのは当然のことでしょう。ここに何の異議も差し挟むつもりはありません。倫理なくして政治はできません。政治にとって倫理は必要条件です。では、倫理があれば政治ができるか? そうではないと私は考えです。
政治家等に対し「道義的責任」という言葉が使われるとき、ここには「政治にとって倫理は必要」という命題が暗黙の了解としてあります。そしてそれだけではなく「倫理があれば政治はできる」という逆命題をも暗黙のうちに了解しているのではないか、そう考えます。
前近代的な人治主義であれば「倫理があれば政治はできる」ということでよいかと思います。人治主義においては政治家(統治者)と政治は直接に結びついており、政治家の思想・思考がそのまま政治に反映されるわけですから政治家の倫理はそのまま政治に反映されます。朕は国家なり、です。そして国家がおかしなことになれば、朕は「不徳の致すところ」と反省します(これは徳治政治というやつで、ほんとはちょっと違うんだけど)。
ですが、現在は法治主義ということになっています。法治主義においては、政治家の思想・思考をそのまま政治に反映させることは禁じられます。いったん、法というものに反映させてから、施策を行う。これが法治主義です。
法治主義においては、政治家の倫理も思想・思考も同様にそのまま政治に反映させるべきではない。そんなことをすると、どうなるか? 今の日本のようになるのです。
 
福井日銀総裁が辞めないと頑張っています。福井氏は日銀総裁としては不適格なことを行ったらしい。にも関わらずやめないで済んでいるのは、そこが「道義的責任追及」に留まっているからです。不適格な者がやめない。道義という曖昧模糊としたものが追及の根拠なので、いくらでもかわしようがあるのです。そして結果として、村上ファンドに投資したであろう、他の高官たちの責任を追及する妨げになっています。
 
ですから、法治主義においては道義的責任といった倫理的なものも、ルールに反映させてなるべく明確にしておく必要があります。どこまで明確にすればよいのか、あんまり微に入り細を穿ったものになると面倒臭いですが、それは仕方ありません。そしてそれだけでなく、いったん定めたルールも常にメンテナンスする必要があります。とてもとても面倒くさい。ですがこれは法治主義の宿命というものでしょう。
それだけ面倒くさいことをやっても、それでもルールの目をかいくぐって悪さを企む輩も出てくるでしょう。これは法治主義の原理から云うと防ぎようがない。ルールに悪いと定められたいなかったことは悪いことではないのです。ルールに定められてはじめて、悪事になる。これも仕方がないことです。
 
こんな世の中はオカシイ、と思われる方も多いでしょう。私もオカシイと思います。でもオカシクてもなんでも、ここを押さえなければ憲法もヘッタクレもなくなります。憲法99条に公務員の憲法遵守の義務が定められていても、公務員の最高責任者が憲法を踏み躙り、国民はそれを気に留めない、ということになってしまうのです。 
 
このオカシサ、違和感を追及すると、きっと一神教的な西洋の倫理観と多神教的な日本の倫理観の違いというところに行き着くのでしょう。私には詳しくはわかりませんが。現実問題としては、今の日本は西洋倫理観に沿った形の国のデザインになっています。基本的人権なんてのもここから派生したものらしい。西洋倫理観がどうしても柄に合わないのなら、日本的倫理観に基づいて国のデザインを考えざるを得ませんが、そんなことは可能でしょうか? 
天皇を中心とした国」なんてのは日本的倫理観に基づいた国のデザインではありませんよ。こんなのは明治維新で世の中を変えざるを得なかったときに、日本の国を擬似的に西洋倫理に似せた形にデザインするため、半ば強引に天皇を中心に据えたにすぎません。日本の本来の倫理観で行けば、中心は空っぽです。和・輪・サークルです。
 
この問題は、またいつか挑戦してみます。