「変わる」ことは「生きる」ことの本質(1)

山口県光市母子殺害事件。以前にもこの事件について、触れたことがある。それを皮切りに暫く拙ブログを訪問してくださった方々と議論をしたのだけど、正直なところ、この議論は非常に疲れるものであった。テーマがとても重たいのである。
数日前にこの事件のほうについては進展があって、最高裁が高裁に裁判の差し戻しを命じた。このことにより加害者の少年の死刑が事実上決まったかのような報道がなされていた。私してはこの流れには違和感を禁じえないのだが、今日は死刑廃止云々の「森の視点」での話ではなく、やはり「木の視点」、被害者遺族の感情について、またしても考えてみたい。
実は今回は、このテーマについて何か考えるのは止めておこうと思っていた。先にも書いたとおり、とても疲れるから。疲れたことがちょっとしたトラウマになって、意識的にこの問題から目を逸らそうとしたいた。だがやはり、最高裁の判断を機に私が普段お邪魔するブログ等でもこの事件及び死刑廃止論についてのお話が多くなり、コメントを寄せたりしているうちに思考が止まらなくなり、仕方がない、また疲れるまでやってみるかと考えを変えた次第である。
 
まず、当エントリーを書くきっかけになったDHさん思い付くまま雑感文の記事を紹介させていただく。生きて償う―償えるのか」というタイトルからして非常に重たいエントリー。この中でDHさんは、
>死刑制度の是非は別として、殺人という犯罪行為は、如何なる方法を以ってしても絶対に原状回復できない
と指摘し、ゆえに
>他の犯罪とは次元が異なる
とする。これについては私も異議は感じない。そしてさらに、
>償うことが不可能な犯罪行為を行った者が「更生」するとは一体如何なることであるのか
と疑問を投げ、さらに
>そもそも「更生」したか否かを誰がどのようにして判断すべきなのでしょう
と畳み掛ける。こうした問いかけを真直ぐに受け止めようと思うと無力感すら感じられるが、DHさんはここに続けて、
>死刑に処せられるような重大犯罪者が仮に死刑を免れたからといって、「自動的」「自主的」に「贖罪の日々を送る」などと期待するのは少々ナイーブに過ぎる
と感想を述べておられ、ここについては多少なりとも反論できると感じてコメントを投稿させてもらった。

「如何なる方法を以ってしても絶対に原状回復できない」という事実から出発せよ

DHさんのコメントにも書いたが、加害者の死刑を求める人は「償い」を求めているようにしか私には感じとれない。6月21日付けの毎日新聞の記事『光市母子殺害 死刑の可能性「恐怖と向き合え」』の報道では、本村氏は「自分の命を取られることを初めて実感したときに、自分の犯した罪の重さを知る。それこそ死刑という刑罰の意味だと思う」と会見で発言したとされるし、さらには「被告は18歳以上。刑法でも死刑を認めている。何とか人間の心を取り戻して死刑を受けてほしい。悔い改めてもなお、命を落とさなければ償えない罪がある。その残酷さを知って、犯罪が起こらぬようにする方法を社会は考えなければならない」
「命を落とさなければ償えない罪がある」としているわけだから、これは「償いを求めている」と解釈して間違いあるまい。だが、これでは「如何なる方法を以ってしても絶対に原状回復できない」という事実に反してしまう。
以前のエントリーでも書いたのだけど、この事実に対処する方法としては、諦めるしかない<のである。反発、違和感を感じられる方も多いだろうと思うが、私にはこれ以外の方法が思いつかない。反発、違和感を感じられる方には、この事実と矛盾しない解決法が別にあるというならば、それを示した頂きたい。そうでなければ、あなた方の死刑廃止論者への「観念論」という批判も単なる感情論としか評価できない。

「諦めるということ」は「変わる」ということ

かけがえのない者が命を奪われたという事実。これはどうあがいたところで変えようがない。認める認めないに関わらず、自己の外部に厳然として存在する事実。繰り返すが思考はここから出発せねばならない。
本村氏の発言等を見るに、彼はこの事実を心の中で認めていないように思える。「死んで詫びろ」などという発言の前提には「詫びる相手」つまり被害者が存在しているという意識がある。彼の中では彼のかけがえのない者はまだ死んではいない。
この指摘に腹を立てられる方もおられよう。そんなことは当たり前ではないか、だからこそかけがえのない存在なのだ! と。それでも敢えて指摘したい。彼の不幸の最大の原因は、彼の外部の事実を彼の心が認めることができないところにある、と。
彼のかけがえのない者はいなくなった。だが彼の心の中ではまだ存在している。この矛盾を解決する方法は、変えられる方を変えるしかない。変えられる方、心の方である。彼の心を外部の事実と一致させる。もっと正確に言うと「彼のかけがえのない者を、彼の心の中でも消してしまう」ことをせねばならない。こういった心の作用を日本では古来から「水に流す」と呼んでいる。
さて、ここでひとつ注意を促しておくが、私が「水に流せ」というのは加害者を含めてのことではない。なぜなら加害者はまだ「生きている」。彼を死刑に処すにせよ、生かして何らかの方法で償いをさせるにせよ、まだ彼を「水に流す」わけにはいかないだろう。それと本村氏の心の問題とは、関係はあるのだがまったく別次元の話だ。水に流せるのはいなくなったものだけだし、今、生存しているものはどんな方法であれ、償えない。これが事実であり、思考の前提だ。この前提が違うというのなら、話もまた違う。

流転こそ生命

生命ある者はいずれ、死ぬ。生命において死とは、流転を止めてしまったいうことである。物質にはエントロピーを増大させようとする熱力学の第2法則が働くが、生命のホメオスタシスという性質は、物質とエネルギーを流転させ増大するエントロピーに抵抗する。それが「生命の形」である。そして流転するということは「心」も同じである。
昨日の私と今日の私は違う。身体を構成している物質も違うが、心も違う。冒頭でこのテーマについては避けようと考えていたと書いたが、考えが変わったとも書いた。変わるのである。生命とはそういったものである。
しかるに、本村氏の死んでしまったかけがえのない者は、変わらない。彼の心の中で生きているとはいえ、それは変化しない。彼がその変化しないものを心で抱きしめ続けるならば、彼の心の一番大切な部分は変化しないままだ。外部事実との整合性も取れないまま。本村氏を応援する者たちは、その「変わらないこと」を応援している。彼がかけがえのない者を変わらず愛し続けていることに共感をし、彼を応援する。そして彼が変わらないことを求める。
かけがえのない者を変わらず愛し続けるという姿は美しく感じられる。だが、これを他人が要求することは残酷なことだ。変わるという生命の本性に反するからである。そこに思いが至らないのだろうか? だとすればそれは「自分は変わらない」と思い込んでいるからではないのか?
もし加害者の死刑が執行されたとして、彼の心が変わると思うのだろうか? 加害者の死と引き換えに、彼の心の中のかけがえのない者も死ぬ。そんなことがありえると考えられるのだろうか? どうやっても彼の心が変わらないとするならば、残る道はひとつ。心の動きを停止させること。一番確実なのは、心の動きを支える生命活動を自ら絶つこと。こうすれば彼の心は彼のかけがえのない者を抱きしめたままの姿で停止する。その姿を是と見るか? その姿に美を見い出すか? しかし、如何に美しくともこの姿は生命のあるべき姿からは反している。残酷な美である。破滅の美である。この美は何者をも生み出さない。生命あるものが決して陥ってはならない姿である。
 

      

 
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