死刑は廃止すべきか否か?

最初に断らせていただくが、死刑についての私の考えはまとまってはいない。にもかかわらず、今日このエントリーを書こうと思ったのは、「アルバイシンの丘」の昨日のエントリーがきっかけだ。「死刑考③ 光市事件」というタイトルで書いておられる。

私は本村氏には共感できない

光市の事件はよく憶えている。強烈に印象に残っているのは、おそらく多くの方も同じだと思うが、事件の内容よりも被害者家族の記者会見のほうである。これについては、私も自分の意見を書いた。
アルバイシンの丘」のpapillon9999さんをはじめ、犯罪被害者遺族の本村氏の意見に共感を持った人は多いようだ。だが私は違う。私は彼に共感できない部分がある。それがどういうことなのか、「アルバイシンの丘」の上記エントリーを拝見してはっきりした。以下、それについて述べたい。
本村氏は次のように発言していたらしい。

死刑は廃止してはならない。死刑の意味は、殺人の罪を犯した人間が、罪と向き合い、犯行を悔い、心から反省をして、許されれば残りの人生を贖罪と社会貢献に捧げようと決心して、そこまで純粋で真面目な人間に生まれ変わったのに、その生まれ変わった人間の命を社会が残酷に奪い取る、その非業さと残酷さを思い知ることで、等価だという真実の裏返しで、初めて奪われた人の命の重さと尊さを知る、人の命の尊厳を社会が知る、そこに死刑の意義があるのだ

私はこの本村氏の発言の中にはウソがあると感じる。何処がウソか? 人の命が等価だと述べているところがウソなのである。

かけがえのないものは、何処まで行ってもかけがえのないもの

再び私自身のエントリーに触れさせてもらうが、つい一週間ほど前の「命は尊い?」のエントリーの中で、「命が尊い」という命題はフィクションなのだ、ということを指摘した。では、本村氏のウソというのはフィクションということなのか、というと、そうではない。ウソは真実ではないとあってフィクションではない。「命が尊い」という命題は「個」の視点に立てば成立する、と同エントリーでは指摘しておいたが、本村氏は「個」という視点において、いや、「個」の視点と「公」の視点をごちゃまぜにして、「命は尊い」→「人の命が等価」→「犯人の命も尊い」という方程式を組み立てている(「犯人の命も尊い」というのは未来形だが)。ここにウソがあると私は思う。
本村氏にとって、亡くされた家族はかけがえのないもののはずだ。たとえ「そこまで純粋で真面目な人間に生まれ変わ」っても、犯人の命と彼の家族の命は、彼にとっては等価ではない。彼はそこで彼自身と社会とを置き換えて、「純粋でまじめな人間に生まれ変わった犯人」と「彼のかけがえのない家族」を等価においてしまう。ここに2つの錯覚がある。それは「純粋でまじめな人間に生まれ変わった犯人」は彼にとっては尊いものではないということ、「彼のかけがえのない家族」は社会にとっては尊いものではないということだ。
彼は気付くべきだと思う。「彼のかけがえのない家族」が尊いのは彼にとってのみであって社会全体ではない。彼は自分の家族を愛するあまり、「彼のかけがえのない家族」が社会全体にとってもかけがえのないものだと信じている。また、彼の言葉に共感する多くの人もそう感じているのだろう。だが、残念ながらそれは違う。だから、彼が云う「人の命の尊厳を社会が知る」なんてことは、ありえない。ありえるのは「命が尊い」というフィクションが成立するということだけだ。

本村氏の発言は危険

彼の発言は二重に危険である。ひとつは社会の秩序を乱す危険性。彼は「かけがえのないもの」というキーワード(彼自身がこの言葉を用いているわけではないが、潜在的にはこの言葉がキーワードになっている)を用いて、彼自身の思いを普遍化させようとしている。いや、誰にとっても「かけがえのないもの」はある。そういう意味では普遍的ではある。ただ、この「普遍的」は社会のルールにはなりえない普遍性である。
考えてみればいい。誰もが「かけがえのないもの」をもつ。ある人が自分の「かけがえのないもの」を優先するとすると、そこには必ず「かけがえのないもの」を失う人がでてくる。これが社会というものの、紛れもない実体だ。誰もが自分の「かけがえのないもの」を優先させるようになると、社会が成立しない。社会を成立させるために優先順位をつけたとすると、「命は等価」ではなくなってしまう。
彼はとどのつまり自分の家族が「かけがえのないもの」であるということを普遍化したいのである。残念ながらこれはできない、ということは前述した。
もうひとつの危険は彼自身にとっての危険である。彼自身が自分の思いを「普遍化」しようとして発言し、多くの人の共感を得る。そうすると彼は「普遍化」できたという錯覚に陥る。けれど、この錯覚はいずれ破れる。最も不幸な破れ方は、犯人が「許されれば残りの人生を贖罪と社会貢献に捧げようと決心して、そこまで純粋で真面目な人間に生まれ変わったのに、その生まれ変わった人間の命を社会が残酷に奪い取」った瞬間に破れるというケースだ。ここで「社会」となっているが彼が企てているのは自己の思いの「普遍化」であるから、ここでは社会=彼自身である。ここでおそらく彼は気がつく。改心した犯人の命を奪ったとしても、それが彼自身の「かけがえのないもの」と等価ではないことを。そして彼自身の「かけがえのないもの」とは別の「かけがえのないもの」を奪ってしまったことを。ここに至ってしまうと、犯人が彼の家族の命を奪うという「取り返しのつかないこと」をしたのと同様の「とりかえしのつかないこと」をしてしまうことになる。

最大の問題は「報道されたこと」

事件直後の本村氏の記者会見は、良くも悪くもショッキングだった。公衆の面前で殺人予告をしたのだから、これはショッキングなはずだ。問題はこのショッキングなものを扇情的なネタとして扱ったメディアにある。
彼は純真だ。羨ましくさえある。だが「純真=善」ではない。純真も場合によっては悪となる。それを悲劇という。この悲劇の原因を作ったのは、センセーショナリズムを求めるメディアで、大きくしたのは「純真」な者たちだ。
メディアが自らを「第4の権力」と自負し、社会の秩序を維持する側に立っていると自ら位置づけるならば、彼の記者会見は報道すべきでなかった。彼の発言を封じろ、というのではない。ここは誤解しないでいただきたい。誰もが自分の思いを発言する自由はあるが、メディアにはそれを取捨選択する「権力」がある。その「権力」を行使して、彼の異常な発言が広く知れ渡ることを防ぐべきだったのである。今や彼の異常な発言は市民権を得、正常な発言と看做されるようになってしまった。社会をリードしているはずのメディアに、彼の発言が異常だと言うことを見抜く見識がなかったのである。
彼に必要なのは、共感ではない。彼への共感は、彼をますます危険な方へ導く。彼に必要なのはカウンセリングである。「かえがえのないもの」を失うことは、もうどうにも「とりかえしのつかない」ことだということを納得してもらうことなのである。そうでなければ、彼はますます「修羅の道」に足を踏み入れることになってしまう。
そう、「諦めるしかない」ということだ。冷酷なようであるが、これしかない。そして彼以外にも「諦めるしかな」かった人間は、五万といる。これは冷酷な現実である。

死刑は廃止すべきか否か?

以上の考察が正しいとするならば(あまり自信はないが)、死刑廃止云々は被害者の個人的な感情とは無関係なところで議論すべきものだということがわかる。
死刑とは社会が人を殺すことである。死刑が制度としてあるということは、社会が個人を殺すことができる=[個人の価値<社会の価値]というフィクションが成立していることであり、死刑が廃止されるということは、社会は人を殺してはならない=[個人の価値>社会の価値]というフィクションが成立しているということになる。どちらのフィクションが正しいか? そもそもフィクションに正しいも間違いもない。そのフィクションが時代に相応しいか否か、である。