『特攻隊に捧ぐ』から考える〜「自愛」と「他愛」

ここのところ、戦争・平和に関する本を、私にしては、よく読む。そんななかで一番心に残っているのは、坂口安吾『特攻隊に捧ぐ』という一文だったりする。
堕落論 (新潮文庫) 『堕落論』は云わずと知れた坂口安吾の名文だが、最近新装となって発売された文庫本の中に、この『特攻隊に捧ぐ』は収められている。この一文が今まで陽の目を見てこなかったのは、GHQの検閲に引っかかり発表予定だった雑誌への掲載を差し止められたという事情によるらしい。
恥ずかしながら、私はこの文章を読んで涙が出るのを抑えることができなかった。

若者の胸に殉国の情熱というものが存在し、死にたくない本能と格闘しつつ、至情に散った尊厳を敬い愛す心を忘れてはならないだろう。人は特攻隊を残酷だと言うが、残酷なのは戦争自体で、戦争となった以上はあらゆる智能方策を傾けて戦う以外に仕方がない。戦争は呪うべし、憎むべし。再び犯すべからず。その戦争の中で、然し、特攻隊は可憐な花であった

彼らは自ら爆弾となって敵艦にぶつかった。否、その大部分が途中に射ち落とされてしまったであろうけれども、敵艦に突入したその何機かを彼ら全部の栄誉ある姿と見てやりたい。母も思ったであろう。恋人のまぼろしも見たであろう。自ら飛び散る火の粉となり、火の粉の中の彼らの二十何歳かの悲しい歴史が花咲き消えた。
彼らは基地では酒飲みで、ゴロツキで、バクチ打ちで、女たらしであったかも知れぬ。やむを得ぬ。死へ向かって歩むのだもの、聖人ならぬ二十前後の若者が、酒を飲まずにいられようか。せめても女と時のまの火を遊ばずにいられようか。ゴロツキで、バクチ打ちで、死を怖れ、生に恋々とし、世の誰よりも恋々とし、けれども彼らは愛国の詩人であった。いのちを人に捧げる者を詩人という

我々愚かな人間も、時にはかかる思考の姿に達し得るということ、それを必死に愛し、まもろうではないか。軍部の欺瞞とカラクリにあやつられた人形の姿であったとしても、死と必死に戦い、国に命を捧げた苦悩と完結はなんで人形であるものか。……私は戦争を最も呪う。だが特攻隊を永遠に賛美する。……青年諸君よ、この戦争は馬鹿げた茶番にすぎず、そして戦争は永遠に呪うべきものであるが、かつて諸氏の胸に踊った『愛国殉国』の情熱が決して間違ったものでないことに最大の自信を持って欲しい

昭和の三傑 憲法九条は「救国のトリック」だった 私がこの一文の存在を知ったのは左『昭和の三傑』でだが、この本にはチャーチルの言葉として「古来、歴史を振り返れば、勝ち負けを問わず良く戦って血を流した民族だけが生き残っている」も紹介されている。実際、先の大戦での日本の兵士たちは「良く戦って血を流した」のだろうと思う。特攻隊はその象徴的存在だが、そればかりではない。戦場では餓死、病死した兵士たちも数知れぬと聞くが、その人たちも含め、日本人は良く戦ったのだと思う。不甲斐なかったのは指導者たちで、東条英機に至っては「生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ」と戦陣訓を垂れながら、自らは生きて虜囚となり、戦勝国によって東京裁判で裁かれ、絞首刑となった。インドのパール判事が主張した如く東京裁判そのものに疑義があるが、それであったも当時の指導者たちは不甲斐なかったことには変わりない。
新装版 坂の上の雲 (1) (文春文庫) 司馬遼太郎坂の上の雲には日清・日露戦争当時の日本の指導者たちの姿が描かれているが、比較するとその差は歴然としている。日本という国が戦争の惨禍を越えて今日の繁栄を謳歌していられるのは、それこそ「兵隊さんのおかげ」なのであろう。

特攻隊員たちが戦った相手とは?

今年もすでに桜の季節が終わり、季節はますます賑やかなものになっていく。もう間もなく、さまざまな草木が花を咲かせることになるのだが、実は私にはちょっとした懸念がある。これは私の昨年のエントリーに書いたことだが、今年も花がつきすぎるのではないか、という懸念をもっている。昨年は異様なほど草や木に花が咲いた。長年山で暮らしている人によれば、草も木も死ぬ直前にはたくさんの花を咲かせ実を付けるものだ、ということなのだが、昨年の花の着き方は「死」を連想させるほどのものだった。もっともこれは、一昨年が大挙して訪れた台風のせいで木に実がならず、その反動かもしれないという話もあって、どちらが正しいのか、はたまたどちらも正しくないのか、よく分からないのだが、いずれにせよ今年の花の咲き具合が気になっている。
そんな話が特攻隊と何の関係があるのかと思われるかもしれないが、草や木が「死に際してたくさんの花を咲かせ実を付ける」ということと、若き特攻隊員たちが死に臨んだ苦悩の末に花を咲かせ実を結んだ境地に、どこか共通点があるような気がするのである。山の草木がもし死に瀕しているのであれば、それは環境の変化が原因であろう。環境との戦いで死に瀕した生命が、未来に託すそうと多くの花を咲かせ実を結ぶ。これは後に続くものを信じて、自らは散っていった特攻隊員たちの命のあり方と、どこか重なるところがあるのではないか、と思う。また、特攻隊員たちが戦ったのも「敵」というよりは「環境」といったほうが適切ではないのか、と考える。
これはこういうことだ。「戦争となった以上はあらゆる智能方策を傾けて戦う以外に仕方がない」。特攻隊員たちにとって、彼らが生きた時代が戦争の時代であったということは、彼らの意思では如何ともしがたい宿命、言い換えれば「環境」であったわけだ。その戦争の時代という「環境」と懸命に戦って見出した答えが特攻であった、とは云えないだろうか。そしてこうは云えないだろうか。現在を生きている私たちは、特攻を初めとする時代と戦った人たちの結んだ果実を食べて繁栄を謳歌し、喰らうばかりで花を咲かすこともせず、次代の種となる実を実らすこともしていない、と。
ちょっと話は逸れるが、私が大戦当事の戦争指導者たちを評価できない理由は、この「環境」問題からも説明できる。人は環境に左右される生き物であると同時に、自ら環境に働きかけて環境を変化させる生き物でもある。社会を先導していく指導者たちは、それに付き従う多くの者の社会「環境」を作り出す責務――政治責任――を負った者たちなのである。多くの者にとって過酷なる「環境」を作り出した責任。そして過去の指導者の責任を曖昧にすることは、現代の指導者の責任を曖昧にすることに通じてしまう。断罪すべきものはキチンと自らの手で断罪すべきであろう。

国家昏乱有忠臣

繰り返すのも恥ずかしいが、私は上で『特攻隊に捧ぐ』に涙したと書いた。その理由は、と自らに問い合わせてみたとき、出てきた答えは「それが自然だから」。坂口安吾が描き出した特攻隊員たちの心情を自然なものと感じたし、それに自分が共感することも自然だと思えた。国家という表現が悪ければ自分の所属する共同体が存亡の危機に瀕したとき、自らの命を捧げることを厭わぬ者がでてくるということは、実は「自然な」ことではないのだろうか。
大道廃有仁義、       大道廃れて仁義有り、
知恵出有大偽。       知恵出でて大偽有り。
六親不和有孝慈、      六親和せずして孝慈有り、
国家昏乱有忠臣。      国家昏乱して忠臣有り。
これは中国の古典「老子」のなかの一章である。うろ覚えの老荘など振り回すのは気が引けるが、これが一番ピッタリなように思える。最後の一節「国家昏乱して忠臣有り」とは、まさしく「国家=共同体」が危機に瀕したときには「忠臣=特攻隊」が自ずから現れてくるという意であり、ゆえに国家などと言い立てる必要なないという文脈になる、らしい。老荘の思想の要諦は「無為自然」であり、国家も仁義も「有為=人工」のものとして非難する。現代文明の対極にあるような思想だが、考えてみれば人とて「自然」であり、人の自然物としての本性が厳然と突きつけられる「死」という場面においては、このような「自然」が顔を出す。また人間は共同体を営み文明を育むことで「自然=環境」と相対してきたわけだから、共同体が崩壊するということはそのまま個としての死につながる。そういった危機に際しては、草木が大量の実を実らせるのと同様に、自然に、共同体を守るという選択をするのではないか、と思うのである。ただし、この共同体を国家と規程してしまうのは「有為」となる。

愛国心教育への懸念

このような自然と人との関係が本当にあるのかどうか、本当のところはわからない。わからないどころか、今までの話は論理としてはまったく成り立っていなくて、ただ「私が思う」というだけのことだ。まあしかし、ついでなのでもう少し話を続ける。
日本の子どもたちの教育に「愛国心」を持ち込むということで、現在いろいろと論議になっている。確かに近年の日本の子どもたちは(大人もだが)、社会に貢献するよりは自らの利益を図ることを優先するようになってしまった。これは他国の子どもたちと比較しての意識調査でも明らかで、日本の子どもは自らの利益を優先する傾向が強い。自らの利益を優先する傾向が強いと、共同体としての秩序が保ちにくい。ここのところあたりが「有為」の愛国者たちが教育を何とかしなければ、と考える根拠なのだろう。が、愛国心の発露となる共同体への愛着心が「自然」なものであるならば、「有為」の愛国心教育を子どもたちに施すことは逆に共同体としての秩序を破壊する結果をもたらすことになりかねない、と懸念する。
人間は誰でも「自愛」を持っている。自分自身が大事、という感覚だ。ここに「有為」の愛国心教育を子どもたちに施すということは、自己よりも共同体を優先するように「刷り込む」ということである。子供の頃はこの「刷り込み」が効き易いので効果は上がるかもしれない。だが共同体が個よりも上位概念になってしまうということは、「自愛」を否定することになる。しかし「自愛」は自然のものだから、なくならない。なくならないが抑え込まれるので歪む。そして「歪んだ自愛」の持ち主ほど、社会の秩序を保つ上で有害な存在はない。さらに恐ろしいのは「歪んだ自己愛」が共同体の規律と同一化してしまうことだ。秩序を守ること、守らせることが「自愛」になってしまう。そしておそらく共同体への忠誠心を「刷り込まれた」人間は、容易にそこへ堕ちこむ。
しかし、考えてみるがいい。秩序を保つ肝要は何か? 「他愛」である。「道徳」と言い換えてもよい。自分が自己を愛するが故に、他人が自己を愛することを認める。この「他愛」があってこそ、秩序は柔軟性、適応性を持って保たれる。「自愛」によって保たれる秩序は、硬直した秩序でしかありえない。硬直した社会秩序を維持するものは抑圧である。「自愛」を抑圧された人間は、他人を抑圧しようとするのである。
では、「他愛=道徳」はどのようにすれば育つのか? おそらくは自然に育つ。人がその本性として持つ「自愛」を、子どもの「自愛」を大人が認める。認められた「自愛」は自ずから「他愛」へと育っていく。これが人のもつ「自然」なのではあるまいか。
特攻隊へ志願した若者たちは、自然に育った逞しい「他愛」の持ち主であったのだろう。であればこそ、自己の死を昇華させ、より大きなものへの愛とすることができた。だから彼らの心情を「自然だ」と感じたのだと思う。だが、もし特攻隊攻撃が抑圧された自愛によって導き出されたものであったなら、どう感じたであろうか? 奇妙に不気味に感じたであろう。かの「オウム信者」たちに感じるのと同様の感触をもつに違いない。
自愛は他愛へ育っていく。そこに必要な肥料は「自然」である。豊かな自然環境とごく普通の人間関係。それに適切な手入れ*1。おそらくはこれで十分なのだろうと思う。こういったことを老子は「大道」と呼んだのであろう。

*1:この用語は養老孟司氏の『いちばん大事なこと―養老教授の環境論』ISBN:4087202194