雨の森

この日は源流館・インプリ講座の3回目。
森で遊んだときのインプレッションをまとめるというのは、私にとってはとても面倒な作業であったりする。
森の中ではどうもぼ〜っとしてしまって、どうも言語機能が上手く働いてくれない。
もともとたいした言語機能を持ち合わせてないところへ持ってきて、それがさらに低下するわけだから、
文章という形で出力するには少し時間をかけて熟成させることが必要。
というわけで、このエントリーを実際に書いているのは4日。
もっとも熟成させたからといって、良いものが出てくるとも限らないのだが...
 
2日はあいにく雨。
それまでは梅雨というのにほとんどお湿りがなかったというに、晴れてほしい日に限って、このありさま。
天気なんて思う通りになるわけがないのはわかっていても、残念なものは残念。
これで今日のイベントはあんまり盛り上がらないかな、なんて思っていたところが...
蓋を開けてみると、この雨が実は恵みの雨となったのでした。
 
私自身は森で遊ぶときの雨は、まったく苦にならない。むしろ、積極的に好きといっていいくらい。
森と水は切っても切れない関係のもの。雨の森を歩いてみるとそれがよくわかる。
雨に濡れ、森の生き物が生き生きとしている様は実に趣が深い。
そんなことは森好きな人なら誰でも知っていることで、それゆえに森好きには雨はさほど苦にはならないのだが、
とはいうものの、雨合羽を着て行動するというのは、あまり気持ちの良いものでもないのは確か。
たいていの人にとっては濡れる不快さが勝ってしまって、なかなか雨で潤った森の良さにまで気がまわらない。
慣れている私にしたところで、仕事で森の中になかに入っているときの雨は苦になる。
仕事中はぼ〜っとしているわけにいかないから、仕事へ神経集中を妨げる不快感はありがたくない。
そんなわけだがら、皆が雨の不快感に覆われてしまって森で遊ぶどころではないだろうと、心配したわけでした。
 
ところが、明け方まで激しく降っていた雨もイベントが始まる頃には小康状態となり、
水源地の森への林道も心配なさそうということで、とりあえず行けるところまでは行こうということに。
道には何の問題もなく森の入り口に到着し、ここでも雨は大したことはなかったので、
当初の予定とは違うコースではあるが、森へ入っていくことになった。
こうなると、私なんかにとっては雨がかえってラッキー。雨の森を味わうなんて久しぶりだったし。
さらにラッキーだったのは参加者に子供が何人かいたこと。
濡れてもへっちゃらコチャマパワーが炸裂し、とっても賑やか。
 
そういえば、かつて私もそうだった。
子供の頃は、濡れるなんてのは平気の平左だった。
雨の日は長靴を履かされたりしたものだが、わざと長靴のなかに水を入れたりして、
ガッポガッポと長靴の中で水が踊るのを楽しみながら歩いたりしたものだ。
そんなときは足が濡れて不愉快だったなんて、これっぽっちも感じたりはしなかったものだ。
そんなことをこの日、雨の中で遊ぶ子供たちを見て思い出したりした。
現代は子供は様変わりしたなんていわれているが、なんのなんの、いつの時代も子供は元気だ。
 
そういえば、いつ頃からだろうか、不快感を強く感じるようになったのは?
子供の頃は、不快感に対する感度はとても鈍かったような気がする。
それとも快感に対する感度が敏感だったのか。
いずれにせよ、ちょっとした不快感なんてのは、遊ぶことの妨げになんかちっともなりはしなかった。
 
そんな子供たちの様子は、ミミズや山ヒルに対する接し方にも良く出ていた。
ヒルというのは、血を吸うヤツ。水源地の森にはいっぱいいる。
大人たちはヒルに吸い付かれる不快感を想像して、その対策に一生懸命。
ヒルは石鹸を嫌がるので、それを靴下に塗りつける。
子供も大人の真似をして同じことをするのだが、これはただ石鹸を靴下の塗るという行為が面白いからだろう。
その証拠に、ヒルが出てきても怖がるどころか興味津々。ヒルの不快感なんて感じてない。頼もしい限りだ。
 
ちなみに私のとったヒル対策はというと、気持ちの上の対策だけ。
つまり、ヒルに吸い付かれても気にしない。そのうち勝手に剥がれて行くし、
吸われたあと血が止まらないということはあるが、それにしたってわずかな間だから気にしない。
そんなわけで、まったく無防備に裸足に長靴で歩いた。
実際ひとつ喰いつかれたが、なんということもない。
そんなこといちいち気にしていたら、山で仕事なんかできません。
 
この対処法も不快感を感じないということだが、これは明らかに子供とは違う、捻くれた大人のそれだ。
意識的に不快感を遮断するのだが、子供がそもそも不快感を感じないというのとは違う。
まったく可愛げがないが、いつからそうなったんだろう?
 
雨の森の話のつもりが、いつのまにか子供の話になってしまった。
やはりロクな熟成をしていなかったということかな。
ま、それもよかろう。
 
この日はインプリ講座ということだったので、そのことについても触れておこう。
 
最後のシェアリングで、この日の講座のミソがよくわからなかった、という趣旨のことをいったわけだが、
「インタープリテーションを体験する」というタイトルでいくと、
この日は雨で予定がドタバタと変わり、まさしく自然相手に臨機応変で対応しなければならない
インタープリテーションの実情を体験したということで、そこがミソだったわけですね。
今ごろになって気が付きました。
 
ここらにすぐ気がつかなかったのは、やっぱり森の中でぼ〜っとしていたから、というのは言い訳か。
受講生ということであるから、ぼ〜っとばかりしていてはいけないわけで...
そんなことだから、シェアリングで意見を述べるという段になって適当なことを言ってしまうわけですね。
適当なことといってもウソを言ってるわけではないから、それはそれで良いのではないか、と思わなくもないが...
 
最後に、シェリングの終わりに出た「すべては正しいときに正しい場所で起きる」という言葉について。
これはインプリ講座初回の講師、松木さんがインディアンの言葉として紹介したもの。
この手の言葉は、それを信じるかどうか、もしくは気持ちの持ちようで左右されるものだが、
あのときのシェアリングの雰囲気には、ピッタリだったように思う。
受講生のみんなから随分と前向きの話が出て、そういうメンバーが集うべくして集った、という感じがしたように思う。
これが本当に「正しいこと」なのかどうかはそのうち結論が出るだろうが、
少なくともあの場で感じたのは、「正しいこと」だと信じられる、信じるだけの価値はある、と。
「正しいこと」であれと願うと同時に、「正しいこと」にしなければならないと思った。
 
私にとってこの日の一番の収穫は、この言葉と雰囲気だったかもしれない。