本日は晴天なり

gushoukuuron2006-03-20

今日は本当にいい天気だった。朝方はかなり冷え込んだけれど、陽が当たると気温がぐんぐん上昇して、日向ぼっこをするのには最適な陽気になった。風はまだちょっと冷たかったけど、今日は全国的に高気圧に覆われていたのだろう、ほとんど風もなし。我が家の犬どもと戯れながら、咲き出した山桜を眺めて過ごした。
本来ならば、今日のような良い天気の日には山へ仕事なのであるが、今日は事情があって休み。いや、今日だけではない。昨日も休みだったし、明日も休みだ。昨日と明日は休日なんだから当然、と思われるかもしれないが、山仕事は一般社会のルールとは違うところで動いている。晴耕雨読」ならぬ「晴伐雨読」。天気の日には山へ出て働き、雨が降ったら休む。暦の上の休日は原則として関係なし、なのである。
今、「原則として」と書いたが、原則があるということは例外があるということだ。その例外が、春と秋のお彼岸なのである。そう、お彼岸といえばご先祖様の墓参り。田舎の人たちは、この昔ながらの習慣をとても大事にしているのである。これは何も田舎に住んでいる人ばかりではあるまい。都会に住んでいる人だってお彼岸にお墓参りをする習慣を大切にしている人は大勢いる。その証拠に、このお彼岸の時期には、田舎から都会へ出て行った人たちがわざわざ墓参りのために帰ってくる。そんな人たちが結構たくさんいる。
これが明日は仕事が休みの理由なのだが、昨日、今日と休みになった理由も田舎の地域性と関係している。今日は葬式があったのである。葬式も田舎の人たちにとってはとても大事な行事。いや、それは田舎に限らず都会の人でも葬式を大事にしない人はいないが、田舎の場合、集落ぐるみということになり、自分が住む集落で葬式が出ると、たいていの人は仕事を休んで葬式の準備を地域ぐるみですることになる。では私が住んでいる集落で葬式があったのかというとそうではなく別の集落なのだが、その集落に住んでいる人と現在一緒に作業をしていて、その人たちに休まれると仕事にならない。従って、今日は休みとなった次第。葬儀屋はないのか、といえばそういうわけでもなく、ちゃんと葬儀屋もあるし、たいていの葬式に葬儀屋も出てくる。けれどすべて葬儀屋任せという葬式ではない。地域の人たちの分担と葬儀屋の分担が分かれていて、それをそれぞれが行う、という形になる。私が思うに、現在葬儀屋の分担となっているところは、昔はおそらく個人の分担であったところであろう。昔は個人といっても一族が近くに大勢住んでいたからそのマンパワーで賄えたものが、今は過疎化が進んで親族は遠く都会へ出ているというケースも多く、そこに葬儀屋の出番がでてきたのだろう。
さて、残った昨日が休業だった理由だが、これは地元の小学校が廃校になり、昨日その式典があったからである。昨日は全国の小中学校で年度末の卒業式というところが多かったはずだが、過疎地域ではしばしばそれが廃校式となる。廃校式となると、現在在学している生徒たちだけではなく、かつての卒業生たちも多く招かれることになる。それでまたまた仕事になる人数が集まらず、お休みとなった次第なのである。

こんな具合でのんびりと時間が流れる田舎暮らし。慣れてしまうとなかなかに快適ではあるが、ここに慣れるには都会暮らしに慣れた人には難しいところがあるかもしれない。上で記したとおりの人間関係の濃密さ、ここに慣れることができるかどうか。私とてまだまだ完全に慣れきったとは、とても自信をもって言い切ることはできないのであるが。

日本人の本性

最近、Dr.マッコイのところにお邪魔して、「保守」についていろいろとご教授を頂いた。柄に合わぬ難しい話に背伸びをして喰らいついていたのだが、今日、日向ぼっこをしながら考えるに、田舎の濃密な人間関係というのは、実は日本人の本性ではないのか、と。いや、これは何も田舎に限ったことではない。少し前なら都会であっても、会社は典型的な村社会であった。日本人の本性に基づいた組織になっていたわけだ。けれど、思う。日本人の本性に沿っていたなら、なぜ廃れて行ったか? 田舎の過疎化の原因が経済的な理由のみならず、上に記したような"人間関係の濃さ”にもその一端があるということは、田舎に移り住んでからよく実感できる。都会の村社会の方も崩壊の危機に瀕しているのは、私が指摘するまでもない。
なぜ、こういうことになってしまったか? 単に「保守」だの「左翼」だのという思想だけの問題ではあるまい