お彼岸とお大師さんと

gushoukuuron2006-03-21

今日は昨日の続き。
今日も仕事は休みということで、ゆっくりと犬を散歩に連れて行き、朝食の後少しPCを覗いていたらお隣のオバちゃんがやってきて、「今日はお彼岸やから」といってお萩を持ってきてくれた。そう、お彼岸にお萩は定番である。
それからお昼前になって集落の中にあるお大師さんの祠の前へ皆が集まり、そこでささやかなお祭りが執り行われた。お祭りといっても神事のようなものが催されるわけでもなく、ただ集まって酒を飲んだりしながらいつもと変わらぬ井戸端会議をひとしきりした後、恒例のモチまきとなってお開き、というたわいもない祭りだ。

なぜにお彼岸にお大師さん?

よく知らなかったのだが、全国的にもお彼岸の中日にはお大師さんは祭られるようだ。なんでも弘法大師空海がお亡くなりになられた日、命日だとか。なるほど。

当地にお大師さんが祭られている理由

そんな理由は地元の人は誰も気に留めている様子もないし、話を聞いたこともない。聞けば教えてくれるかも知らんが。私が勝手に考えるに、おそらく当地は熊野から高野山へ詣でる道の出発点に当たっているからだろう。2年ほど前に「紀伊山地の霊場と参詣道」ということで、この道(小辺路)は世界遺産登録になっている。
この小辺路について少し触れておくと、これは越えていくのはなかなかに大変な山道である。高野山までの途中、いくつ峠を越えていくことになるのだろうか? 詳しくはしらないが3つ、4つは越えることになろうか。今では熊野古道として知られるようになったが、そうなる以前は山歩きのガイドブックなどに掲載されているような道だった。最もその頃は熊野から高野山までの道が全て開通していたわけではなく、そのほとんどは廃れてしまっていた。世界遺産登録になったということで再び整備されたのだが、そんなののどこが世界遺産? と疑問に思わなくもない。
けれど、廃れずに残っていた道には古代ロマンの香りが漂う。上の写真の祠の横の像は、これはお大師さんではなく観音様である。これを地元では一番さんと呼んでいる。一番ということは二番三番とあるわけで、三十三番まである。峠を越えた向こうの集落につくまでの間に、三十三はの観音様が配置されているのである。この三十三は西国三十三札所の三十三で、一番さんは一番札所、那智山青岸渡寺如意輪観音の、いわばレプリカであろう。

以下、雑感

お祭りの後、自宅に帰ってWBC決勝戦でもみようとTVのスイッチを入れたら、たまたまNHKのニュースが放送されていて、“お彼岸で墓参り”というニュースが流れていた。これを見て、思い出した。この「ニュースで見る」という感覚。田舎で生活を始める前は、昔ながらの伝統行事というとこんな感覚で見ていた。「ふーん、そう。けど、今どきねぇ」 そういった風習が“生きている”という感触がなかった。
冒頭のお萩を頂いた話には続きがある。続きといったってたいした話ではなく、単に頂いたお礼を述べにいったというだけのことだが、そのときのオバサンの話が興味深かった。この“興味深い”もほんのちょっとしたことなのだが、要はオバサンは初めからおすそ分けをしてくれるつもりでお萩をたくさんこしらえたという話。ポイントは“こしらえた”というところ。いくら当地が田舎とはいえお萩を買うくらいのことはできるし、買って済ます方がずっと楽なのだが、そうではなく、“お彼岸に”お萩を“わざわざ自分で作って”“おすそ分けをする”という感覚。オバサンはそういうことをごく当たり前といった風で話をした。オバサンにとっては“ごく当たり前”な感じが私には興味深かったのだ。
昨日のエントリでも書いたことなのだが、ここのところ「保守」について、守り保ちたいものについてよく考える。オバサンの“当たり前”の感覚は、私には守り保ちたいもののように思われる。国家や民族としての歴史や伝統などよりも、ずっと高い優先順位で
モチまきの様子