天命・宿命・運命の三命から愛国心を考える

またしても愛国心について考えてみたい。それにしても、大それたタイトルだ、また背伸びをして、と自分でも思うのだけれど、恥を覚悟で挑戦してみる。といっても、今日のエントリの内容の大半は誰かの受け売りだったりする。誰の話しだったか、もしくはどこかの本で読んだのか、それは失念してしまったのだが。

比喩から                

まず、運命とは何か? 運命とは、湯飲みの中に注がれたお茶に相当する。また、宿命とは何か? これは湯飲みである。では、天命とは? 湯飲みの外側の空間、この画像で言えば湯飲みが置かれている台、とでもすればよいか。
こんな比喩では何が何だか分からないだろうから、もう少し説明を加えると、宿命とは持って生まれたものということになる。人として生まれた、男としてまたは女として生まれた、誰と誰を両親として生まれた、どの国で生まれた、どの時代に生まれた、湯飲みの内容物を運命としたときに、それを越えて出ることが出来ないもの、それが宿命の意味である。このことは逆に湯飲みのなかであれば自由になるということを意味してもいる。そう、運命は変えることができる。
この文脈でいけば、天命とは宿命・運命を支える法則のようなものとなる。例えば私は、私は両親から生まれたのであって処女懐妊によって母親のみから生まれたものではない。また、日本で生まれ、地球上の他の国で生まれる可能性はあったかもしれないが、月で生まれることはありえない。これが天命である。

日本人として生まれたという宿命

私は日本人として生まれた。これはたまたま偶然である。天命からすればアメリカ人として生まれることもありえたし、イラク人として、または韓国人として生まれてもおかしくはなかった。けれど、たまたま日本人として生まれた。たまたまだけれど、そういう宿命で持って生まれてきたからには、これはもう変えようがない。私自身が認める、認めないに関係がない。
短絡的に結論を出すならば、宿命は変えようがないならそれを受け入れるべきだ、即ち自らの生まれた国を愛すべきだ、ということになるのかもしれないが、ことはそんなに簡単ではない。変えることができないのなら、積極的に受けれ、愛するべきということには賛成するけれども。
もう少し考えてみる。私は日本の、それも大阪という関西の地に生まれた。これを上と同様の比喩をもって表すと
というようなことになる。
ここで、鍋敷き(茶色の丸いの)を日本という宿命とすると、湯飲みが関西、もしくは大阪という宿命になる。また、お盆という宿命もここには表されているが、これはアジア、黄色人種として解釈してもよいし、地球・人類と解釈しても差し支えない。
つまりこういうことだ。宿命という枠もいろいろな大きさの枠があり、どこをどう見るかによってその人に感じられる宿命はちがって見える。生まれた国という宿命も、数多くある宿命の枠の中のひとつということであるにすぎない。

宿命と運命と愛国心

日本に生まれたから日本を愛すべき、という論理は途中で実に多くのものを省略してしまったもの、ということになる。自分の生まれた国だから愛すべき、という論理は、大阪を、関西を、アジアを、地球を愛する論理と全く同一であって、ここで国を愛するということを強調することは、きわめて人為てきなことであると気がつく。
このような主張には、国には文化があるではないか、という声が聞こえてきそうだ。もっともだが、これも人為的な強調であるに過ぎない、というのは少し考えれば分かる。関西には関西独自の文化があるし、それは関東にもある。料理なんかはその典型だ。食品会社はカップラーメンを販売するにだって関西向けと関東向けでは味付けを変えて出す。これは文化圏が違うということだ。
日本語という母国語があるではないか、と言われてるかもしれないが、私は東北地方や沖縄の人たちが地元の言葉で話すのを理解できない。逆に、欧州に行くと、国同士の言葉の違いが、日本語でいう方言くらいにしか違わないところもあるらしい。
それに実は、文化は宿命とは言い切れない部分がある。運命に相当する部分も大きい。子供にとって文化は宿命であろうが、長じてからは運命である。それを受け入れるか受け入れないかは自ら決めることができるからだ。また“愛する”というのも運命である。愛するか愛さないも、みなそれそれで決めてよい。
愛国心とは結局のところ、湯飲みを愛するのか、お盆にこだわるのか、といった程度のものでしかない。

愛国心のあり方を問う

上記のような言説は、愛国者からは反発を喰らうであろう。自らの大切なものをたとえ比喩と断っているとはいえ、湯飲みやお盆と比較するなどケシカランと言われそうである。私が今、比喩の対象にしたのは「国家」だが、これが神、しかも特定の神となるとどうなるだろうか? 少し前にヨーロッパと中東で起こった騒動を思い起こしてもらいたい。絶対の神を侮辱した、という騒ぎになるのである。
「国家」を絶対視する愛国者は、国が相対化されることを許さない。それは侮辱と受け止めてしまう。この罠に陥ってしまうと、残念ながら容易に抜け出す方法はない。そして、この“絶対化”の罠に嵌るのは、神や国家の信奉者だけではない。金の信奉者も陥るし、憲法9条についても絶対化の罠に陥ったものは多い。
愛国心のあり方を問うということは、 自分の足元に疑いの眼差しを向けてみるということである。こういう価値の相対化を進める作業を「哲学する」*1というわけだが、この作業の果てはどういうところに行き着くか? 実はここにもニヒリズムという罠があるのだが、これを免れていくと、「天命」という視座に辿りつくことができるというわけだ。

また比喩にもどると、ここにはテーブルの上にさまざまな形の容れものが乗っかっているのが見える。テーブルは天命、容れものは宿命・運命。この視点から見ると、世界は天命という基盤の上にさまざまな宿命・運命が乗っかっているようなものだと捉えることができるというわけだ。ここまでくるとお隣の宿命・運命も見えるようになり、お隣もまた絶対化の罠の中でもがいている姿が目に入るようになる。
では、愛国心はくだらないものなのか? そうであるともそうでないともいえる。それは「愛国心」という概念は相対化できることだが、「国を愛する」という行為は運命の範疇に属することで、己がこれの行為を行うかどうか判断するという過程が入ってくる。実はこの過程こそが人の人生において最も重要なことなのである。この過程の中で人が「国を愛す」という決断をしたときに、だれもその決断についての評価は下すことはできないのである。
しかし、一応「愛国心のあり方」という問いに対しての私なりの模範解答を示しておくならば、それは自己愛から出発し、家族愛、自らの属する職場や学校への愛、郷土愛と範囲を広げ、それが歴史と文化の共有体および風土としての国への愛へ上ってゆく。そしてそこへ留まるのではなく、さらには人類愛・地球愛へと昇華していくものでなければならない。国への愛、愛国心とは、愛が小さなものから大きなものへと広がっていく過程のなかの一部分を捉えたもの、これが愛国心の正当なあり方ではないだろうか。故に、一部分を強調しての「愛国心」などは必要ないのである。

あとがき

いや、柄に似合わぬご大層なことを書いてしまった。まあ、しかし、「天命・宿命・運命」なんて大仰なタイトルからすれば、このくらいでないと釣り合いが取れないとは思う。写真はお粗末だけど。
「自らの足元を疑う」なんて偉そうなことを書いたが、ついでにもうひとつ疑いを提示しておくと、「お前は国を絶対視することを批判したが、自分こそ天命なるものを絶対視しているのではないのか? それにそもそも、天命なるものが本当に存在するのか?」
こんなところで止めにしておくほうがよさそうです。

*1:「哲学する」と「哲学を学ぶ」ということは似て非なるものである。これについてはま別の機会で挑戦したい