であいもの〜伝統について

私がよくお邪魔するブログに『- クラシック音楽のひとりごと -』がある。毎朝、起床と同時にPCを起動させ、幾つかのブログをチェックするのが最近の習慣になっているのだが、『- クラシック音楽のひとりごと -』はそのうちのひとつなのである。
その『- クラシック音楽のひとりごと -』の昨日24日のエントリヴィヴァルディの『四季』についてであった。そう、あの有名な『四季』である(視聴はこちら)。私はこのエントリの書き出しにちょっとした感銘を覚えた。その書き出しはこうである。

桜の開花便りが届きます。春です。
うららかな春の日です。

そこで、今日はヴィヴァルディの協奏曲集「四季」。

たったこれだけのことなのだが、これが面白い。「うららかな春の日です」に続いて、なんの仲介もなく、いきなり「そこで、今日は〜」ときた。しかしこれに何の違和感もない。考えてみれば妙なことだ。ヴィヴァルディの『四季』はれっきとしたクラシック音楽西洋音楽である。ヴィヴァルディの生年は1678年というから、日本は江戸時代真っ最中。そんな時代の音楽が、日本の春の風情とに全く違和感を感じないというのはどういうことなのか。

であいもの

「であいもの」とは日本料理で使われる言葉で、素性の違う素材の組み合わせが、とても相性の良いものをいう。「 筍とわかめ」「サンマと大根おろし」「ブリと大根」などがその例なのだが、このことは何も料理の世界だけのことではなくて、他の分野のさまざまなことにも当てはまる事例はたくさんある。その中のひとつが「日本の春の風情」と「ヴィヴァルディの『四季』」の組み合わせである。
他にも例を挙げると、音楽関連でいくならば「暮れの第九」というのもある。なぜ年末になるとベートーヴェンの第九交響曲が頻繁に演奏されることになるのか、さっぱり訳がわからない。クラシック音楽の本場の欧米でもそんな習慣はないというのに、日本では毎年繰り返される現象。もはやこれは「日本独自の伝統」と呼ぶことができるのではないだろうか。

「伝統」とは本来、ダイナミックなもの

もうひとつ、ヨソ様のブログに触れさせてもらう。yagianさんの『山の手の日常』だ。ここでの23日のエントリで、「伝統」についての考察がなされている。面白いと感じた一文を引用させてもらうと、

どれだけ慎重になっても、日本の伝統のすべての要素をくまなく網羅することはできないし、なんらかの立場に立たなければ、筋の通った文章を書くことはできない。だから、どのような「日本の伝統」論も、筆者の「偏見」から逃れることはできない。しかし、そのような「偏見」を持っているということを自覚して書くことと、無自覚で書くことの差は大きいと思う

私はこの文章に、すっきりとした「伝統」についての理解が示されたと感じたのだが、こう書いたyagianさん自身はすっきりしていないという。これはなんだろうと、ひっかかっていた。
『山の手の日常』にかぎらず、最近この「伝統」という文字に行き会うことが多い。そしてこれらの「伝統」にはたいていの場合、スタティックな意味合いが込められている。例えば少し前に話題になっていた「皇室典範改正問題」。女系天皇反対派の論拠は「男系天皇は日本の伝統」というものだった。
このように何かの主張の論拠として「伝統」という言葉が出てきた場合、それは「ファイナル・アンサー」である。つまりそれは疑いようのないことであり、それ以上に踏み込むことができないもの、という意味合いで使われる。
けれど、「伝統」は本当にそんなものだろうか。
「伝統」が本当にスタティックなものであるならば、「であいもの」が生まれるはずがない。「であいもの」の背後には、出会ったけれども相性のよくない組み合わせが無数にあったであろう。そんな無数の組み合わせの中から相性のよい組み合わせを選び出すという営為は、とてもダイナミックなものである。そしてそのダイナミズムは、今現在も各所で継続されている。
つまり「伝統」とはダイナミックな人の営為の積み重ねなのである。「積み重ねの結果」という過去の範疇だけでなく「ダイナミックに積み重ねていく」とい現在・未来の範疇も含む。それこそが「伝統」なのである。「伝統」の過去の面だけを捉えることは、これは実は伝統の否定になってしまう。「伝統」を変えようのない過去のものとして理解することは、「伝統」ダイナミックに変化してきた事実とは矛盾する。だから「伝統」を十全に把握するには、「伝統」の現在・未来も視野に入れておかなければならない。
では、「伝統」の未来とはどういうことか? 未来など誰にも分からない。どう変化するかわからない。つまり「伝統」には、過去からの積み重ねを未来に向けて破壊する、ということがその本質として組み込まれているということだ。破壊しても積み重なっていく「伝統」。伝統とはこのようなものなのである。

「伝統」とは探求

日本における『四季』の受容は、日本の「伝統」を豊かにした。けっしてそれまでの日本の伝統的な美意識を破壊したわけではない。それまでの伝統があったからこそ、『四季』と日本の春の風情は出会い、相性のよい組み合わせとなったのである。
「伝統」とは、「であいもの」の積み重ねと、そこを踏まえた上での新たな「であいもの」の探求なのである。
そうであるから、私たちはあらたに「伝統」を積み重ねていくことができる。