ワーキングプアを是認する人たち

あれからワーキングプアについてのいろいろな意見を知りたくて、いろいろとブログを訪問してみた。中には当然ワーキングプアの出現を是認する意見もあって、これはこれで一理あるものであったりする。
劇場管理人のコメント:弱者を弱者にしている、唯一にして決定的な要因は、「強者を理解していない」ということ

一度も強者になったことのないヤツには、想像もつかないだろうが、実は、ほとんどの強者は、かなりぬるい。

その上、彼らの確固たる安定した地位は、見た目ほど安定なんかしてない。

つけ込む余地、蹴落とす余地なんてありまくりだよ。

ちょっと視点を変え、ちょっと工夫するだけで、逆転するチャンスなんて、いくらでもあるんだ。

複雑な現実社会における戦いというのは、何百万種類ものカードがあるカードゲームみたいなもので、才能や環境というのは、その手持ちのカードだ。
・・・
結局、このカードゲームに勝つ方法は、

まず第一に、最初に自分に配られた手持ちカードである、生まれつきの知能だとか、教育だとか、体力だとかが、唯一のカードだとは思わないこと。

第二に、世の中に散らばっている、様々なカードを、拾い集めるため、つねにアンテナを張っていること。

第三に、カードは組み合わせ次第で価値を持つものだから、最初に配られた強力な手持ちカードに安住してろくにカードを探していない強者なんかより、よっぽど強いカードの組み合わせを作れることなんだ。

にもかかわらず、ほとんどの弱者は、自分の手持ちのカードの悪さを嘆くばかりで、アンテナを張ろうともしないし、より強力なカードの組み合わせを工夫したりもしない。

自らを強者だと自認しているひと、強者を目指す人には強い説得力があると思う。そして、これぞまさしく「資本主義の精神」である。強者を理解していない=「資本主義の精神」を理解していない、なのである。

資本主義の精神

プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 (岩波文庫)
この古典的名著によって「資本主義の精神」は明らかにされた。「資本主義の精神」とは、絶対神への信仰と結びついた際限のない勤勉の精神である。故に、強者でさえぬるい。「資本主義の精神」を体得したものにとっては、「そこそこの勤勉」は許されない。
そして「資本主義の精神」は際限なき勤勉から生み出された富を尊重する。富は際限なく生み出していかなければならない。自分が必要とする分だけの富を獲得しようとする「そこそこの勤勉」は罪悪である。弱者である。それが資本主義の精神だ。上の記事は「資本主義の精神」を体現している。

だが資本主義者たちは転向する

神への信仰と結びついた「資本主義の精神」は強力無比だ。なにせバックに控えるのは神だからだ。暴力団の比ではない。
しかし、現代の「資本主義の精神」にはもう神はいない。背後にあるのは単なる利己主義であり、「資本主義の精神」はその利己主義をカモフラージュするための衣装にしかなっていない。
神がいなくなったがために資本主義者は「そこそこ」で転向する。残りの人生を豊かに暮らせるだけの富が蓄積できたのであれば、競争社会からリタイアすることを望むのである。余生を豊かにのんびりと過ごすことを望む。こんなことができるのも「勤勉さ」を命じるのは神ではないからだ。神が命じるのなら死ぬまで勤勉でなければならない。リタイアなど許されないはずだ。
中にはリタイアしない資本主義者もいる。現在の資本主義社会では正真正銘の強者である。ではこの者たちは神への信仰を保持しているのかというと、それも違う。それは単に「勝つこと=富を獲得すること」が彼らにとってのアイデンティティになったというだけのことだ。
そしてもうひとつ重要な違い。それは神が背後にいるときには「富は生み出すもの」なのだが、神が背後にいなくなれば「富は獲得するもの」に変質してしまうということである。複雑な現実社会を富の争奪戦だと捉える上の記事は、「富は獲得するもの」であることが前提となっている。

堕ちた資本主義は公正な秩序を破壊する

今や利己心を覆い隠す衣装でしかなくなった資本主義は、公正な秩序を破壊する原理に堕ちてしまっている。世の中を富の争奪戦(=競争社会)と捉え、弱者が生存する権利すら省みない。「神の前では平等」という、同じく絶対神への信仰から生み出された「人は皆等しく生存権を持つ」という原理すら否定してしまう。
ワーキングプアを是認する者たちとは、勤勉な利己主義者でしかない。

亀田戦は見なかった

昨日でTBS放映されたボクシングWBAライトフライ級王座決定戦は酷かったらしい。私は観なかったのだが、これは事情があって観られなったというわけではない。敢えて観なかった。観たらきっと不愉快な思いをするだろうと思ったので。というか、あの亀田ってやつらがそもそも不愉快。なんでまた、あんなにエラソーにしていられるのか? そしてあんな汚物がTVから垂れ流されるのか?
でも結果は気になっていた。で、今朝一番にネットでチェックした。予感的中。観なくてよかった。観ていたらきっとTBSかどこかへ抗議の電話をせずにいられなかっただろう。炎天下で一日作業をしなければならないのに、そんな不毛なことにエネルギーを費やすなんてバカバカしい。そんなことをするなら十分に睡眠をとって翌日の仕事に備えた方がよほど生産的だ。
 
この選択は単純肉体労働者としては正しいものであったろうが、公正な社会の実現を目指す市民としては正しくなかったかも。やはり試合を観て、不愉快な思いをして、TBSに抗議すべきだったかもしれない。なによりそのほうが面白いではないか。今は試合を観なかったことをちょっと少し後悔している。
 

ワーキングプアは必然か

ここのところ、ワーキングプアについて考えていた。何か書こうと思っていた。
7月23日にNHKスペシャルで『ワーキング・プア〜働いても働いても豊かになれない〜』と題する番組が放映されるのを見ていた。もう少し正確に書くと、妻が放映されるのを見ていたのを見ていた。つまり私はあまり放映内容については見ていなかった。見るまでもないと思ったのだ。こんなことになるのは当たり前だと思って興味を失い、テレビを横目で見ながらPCの前に座っていた。
その後、案の定というか、ブログ界でもいろいろと発言があった。ワーキングプアはケシカラン、という内容であった。私が普段巡回しているブログではワーキングプア拡大を当然視しているところは無かった。それはそうだろう。
私だってワーキングプアはケシカランと思っている。だが自分がワーキングプアについて何かを書くに当たって、ただケシカランと書くだけでは足らないと思っていた。番組を「見るまでもない」と思った理由について触れなければと思っていた。
そんな思いを抱いている中で、これはと思う2つの記事に出会った。ひとつは早雲さん 「日本はなぜ負債大国になったか」。もうひとつがキリスト者として今を生きる「私的な」出来事

ワーキングプアの骨格

「日本はなぜ負債大国になったか」の内容は、もちろんタイトルの通りのものだ。だがこの記事を読んでみると、日本が負債大国になったこととワーキングプアの拡大とが裏表の現象であることがわかる。そしてアメリカがまた日本以上の負債&ワーキングプア大国であることもよくわかる。そのキモは税制にあるというのである。
乱暴にまとめてみると、日本もアメリカも「無価値の富」に対する課税を怠っているというのである。金持ち優遇税制がそれであるが、そればかりではない。「無価値の富」に対する援助すら行っていると上の記事は指摘している。その援助ゆえに日本は負債大国になっているという。
「この「無価値」の富は、主にFinance(金融)、Insurance(保険)、Real Estate(不動産)産業とその不労所得者の収入であり、それらの頭文字を取って一般にFIRE分野と呼ばれている。」まさしく、資本家の領分である。そしてその資本家への援助はどこから行われているかというと労働者階級の持分から行われるという。
不労所得者の収入は、貸し手と地主が事前に規定する固定利用料(家賃と利子など)から成る。企業の成功如何で増減する収益とは対照的に、これらの固定料金は、経済の成長や支払い能力とは無関係に、いやおうなしに要求されるものである。ある人の収入が他の人の支出になる「ゼロサム・ゲーム」がそうであるように、不労所得者が要求する料金は、債務者の基本資産を削るところまで利益を食いつぶしてくる。」
 
例えばここに月収10万円の労働者がいるとしようか。彼の支出は当然月10万円にならざるを得ないのだが、その支出内容を検討してみるとどのようになるか。ごくごく単純に考えてみる。
生命維持のために必要な食費は家族構成にもよるが多くても、3万円程度であろう。この労働者が都市生活者であれば、家賃は3万円ではまず、済まない。つまり「生命維持のコスト<不労所得者が要求する固定料金」なのである。そこへさらに税金・年金等が加わり、労働者の可処分所得はますます減少し、結果として子どもの教育や病気などの非常事態への備えが薄くなってしまい、容易なきっかけでホームレスなどのより貧困な層へ転落してしまうことになる。
このような事態にセーフティーネットを施す責務のある国も、「不労所得者への固定料金」への支払いに追われる。国債等の負債への返済と利払いがそうだ。国の負債が増大した理由も富裕層への優遇税制で税収が減少したことが理由であるが、その富裕層への支払いの方は固定のままである。足りなくなった分は貧困層への増税とサービス削減によって賄われる。
企業も同様である。BLOG版「ヘンリー・オーツの独り言」「数値で見る「格差社会」の現状と展望」によくできたモデルが掲載されているが、これは企業がいかに人件費(=労働者への富の配分)を減らしてきたかがよくわかる。もっとも企業にも言い分はあって、それは一時期確かにそうしなければ企業は生き残って行けなかったのである。銀行等の金融引き締めもあったし、現在ではファンド等への企業防衛や株式市場での評価への対応などで、企業は否応無く人件費を削って利益を計上しなければならなくなっている。そして、そのどれもこれもが富裕層=不労所得者の影響力が肥大したことに原因がある。
 
「日本はなぜ負債大国になったか」にはこのように記されている。
階級闘争の本質は経済力を政治権力に転換することである。ほぼ決まって勝者となる富裕階級にとって、階級闘争の目的は自分達の所得や富に対する税金を削減することにある。その結果、税制は富裕者への累進制を弱めるよう改正され、賃金労働者や消費者の税負担が高くなる。日本の場合も、今日の財政赤字と国家債務は、最も裕福な階級に対する課税を怠ったことが原因となっている。」
「しかし、現在の財政政策の悲劇は、生産的な産業投資よりも、非生産的で寄生的な富の方が簡単に税金逃れができる点にある。不正な富の方が税金を削減しやすいのは、それがより多くの経済価値をもたらすからではなく、ただ単に最も収益性が高く、強い影響力を持つためである。過剰の富や、不労所得者の所得へ課税する代わりに、必需品や生産的な直接投資、労働者階級への課税を増加すれば、産業の発展や繁栄は抑制されてしまう。」

まさしく「非生産的で寄生的な富」が「ただ単に最も収益性が高く、強い影響力を持つため」に課税を免れ、「産業の発展や繁栄は抑制されてしまう」結果になってしまっている。蓄積された富が生み出す無価値な富が重視され、社会の基盤を支える労働の価値が不当に蔑ろにされる。その象徴がワーキングプアだ。どうも私たち持たざる者は知らないうちに「階級闘争」に巻き込まれ、敗北を余儀なくされているようである。

ワーキングプアの原動力

ワーキングプアを作り出す骨格を示した記事が「日本はなぜ負債大国になったか」であるとするならば、ワーキングプアを作り出すことになった原動力を示す記事が「私的な」出来事である。この記事もタイトル通り著者であるstarstory60さんの私的な思いを記したもので、ワーキングプアについて焦点を絞ったものではない。しかし、starstory60さんが日常の中で感じる一人一人の何気ない思いこそが、ワーキングプアを作り出す原動力となっていることが見て取れる。
そのツボがこれ。
「みんな学校を愛してるんじゃないんだよ。自分のことしか考えてないの。」
starstory60さんは学校に勤められているようなのでここは学校となったが、これを会社としても、大きく社会としても同じことである。みんな自分のことしか考えない。だから抜け駆けをするのだ。自分だけ好い思いをしようとして、権力者に擦り寄る。いや、「自分だけ」とは必ずしも考えていないかもしれない。しかし、同じ境遇の者たちと「共闘して勝ち取る」なんてシンドイことよりも権力者に擦り寄って目をかけてもらって、楽して好い思いをしたい...、その結果、他の者が好い思いを出来ないことになるかもしれないけど、そんなことは関係ない...、こういった一人一人の心情が浮き彫りにされている。
権力者に擦り寄る心情とは、とどのつまり、好い思い(ここには富も含まれる)は権力者のものだということを認めているのである。これでは富裕層(この者たちは、自分たちの富は努力し勝ち取った結果だと主張する)にしてやられるのも当然だ。権力者たちに認められようという努力も努力であろうが、その努力はワーキングプアを作り出す骨格を強化するものにしかならず、持たざる労働者は自らの足元を自らで「努力して」崩していくことにしかならない。
「 世の中をよくする鉄則…意見は直接相手に言え!権力者に持っていくな!」
権力者にご注進する努力は、権力者たちを利することにしかならない。ここを突き崩すには、好い思いや富が、そもそも権力者や富裕層の所属ではないと認識しなければならない。
「世の中をよくする鉄則…福利厚生は権力者の恩恵としてではなく、「私たちの権利」として勝ち取れ!ぬけがけをするな! 」
正論である。

なぜウヨクなのか?

同じ「私的な」出来事「なぜウヨクなの?」という問いかけがある。starstory60さんは「キリスト者」と名乗りを上げているのだから、この問いは至極当然のものであろう。私はウヨクではないのだけど、ここに私なりの回答を示したいと思う。ここでキーになるのは「私たち」とは何か? である。ウヨクはここに答えを出す。
Dr.マッコイの非論理的な世界から「身近にもあった「命がけで守る」行為」。この記事のなかでDr.マッコイ*1は次のように書いておられる。
「今の日本に必要なのは、あらゆる共同体の再生ではないかと思います。小さいところでは家族という共同体を、大きなところでは日本という共同体を、なんとか再生して行きたいと思います。」
ここでいう共同体こそが「私たち」なのである。彼らは「私たち」とする基準を「伝統」*2置く事で明確にするのである。そして共同体に重要性を明確にした上で、
「共同体から切り離された個人がバラバラに個人主義で存在すると考えるなら、こうした責任感も郷土愛も生まれないでしょう。社会契約説みたいな味も素っ気もないものになってしまいます」
という思考になっていく。

出発点は同じ

このように見ていくと、「キリスト者」たるstarstory60さんも、「日本の伝統に価値を見い出す」Dr.マッコイも、ワーキングプアを作り出す骨格と原動力を否定するという出発点においては、同じところに立っているということがわかる。そしてまた、目指す終着点についても大きな違いは無いのかもしれない。異なるのは道中の過程でしかない。
「私的な」出来事に寄せられたるるどさんのコメントに以下のようなものがあった。
「富士山の頂上への辿り方が複数あるように、右翼や左翼や色々な思想の違いを超える時、実は同じ方向を見ていたり、同じような事を大切にしていることも少なくないかもしれませんね。」
まったくその通りだと思う。
参考:喜八ログ「憂国・売国」

あとがき

今回はいろいろな方の記事を勝手に引用させてもらったばかりでなく、手前勝手に解釈して私の記事の素材とさせていただきました。引用元の方々には異なる意見があることと思います。ご批判をお待ちしてます。

*1:Dr.マッコイはご自分のことはウヨクではなく「保守」だとされている。彼によれば保守とウヨクはまったく別物なのだそうである

*2:私は、いわゆるウヨクが考えている「伝統」の内容には異議がある。これは「「日本の伝統的宗教観、天皇教、靖国神社」についての愚考」においてその一端を示した。だがに内容はどうであれ、「伝統」によって共同体を規定していくこと自体には反対ではない。

北朝鮮女子、主審に蹴り 〜 愛国心至上主義者

アジアサッカー連盟(AFC)は28日、07年女子W杯予選を兼ねた女子アジアカップ準決勝の中国戦で、審判団への暴力行為で退場処分を受けた北朝鮮GKハン・ヘヨンら3選手について、30日に行われる日本との3位決定戦を出場停止にすると発表した。

 北朝鮮は27日の中国との準決勝で0−1で敗れた。試合終了間際に同点ゴールを決めたかに見えたが、オフサイドの判定でゴールは幻に。これに激怒、複数の選手が試合後に判定を不服として審判員を追い回して猛抗議。激しく副審に詰め寄ったDFソンがイエローカードを受けると、興奮したGKハンが主審を小突いてレッドカードを受けた。その後、蹴りを入れるなど暴力行為に及んだ。

 出場停止処分となったほかの2選手はペットボトルを投げつける暴挙に出た。選手が投げたペットボトルの一部がスタンドに飛び込んで、中国人サポーターが応酬。ピッチ上をモノが乱れ飛ぶなど、地元警察が介入する事態にまでの大騒動に発展した。

夕刊フジより】

審判にケリとは、さすが北朝鮮。やっぱり北朝鮮は異常な国なんですね。オワリ。
(主審を蹴って泣き崩れたGKのハン選手)
 
 
 
 

 
 
 

...ではなくて、同じサッカーがらみの暴力沙汰で、まだ記憶に新しい「ジダンの頭突き」と比較してみたいと思いまして。
代替文
 

 
 
 
 
 
 
 

 
 
ジダンの頭突きについては先日、記事に書いた(やっぱりジダンのこと)。
その記事にて、こんなことを書いた。
「スポーツの美点は、それが闘争の一形態でありながら、完全にルールの支配の下で行われるというところにある。ルールの支配があるからこそ、闘争の美点が映える。プレーをする者もプレーを鑑賞する者も、安心して闘争の美点を楽しめる。けれど、例えば一時期のイラク北朝鮮のように試合の結果が選手の生命の安全を脅かすという事態になると、スポーツの美点が損なわれてしまいかねない。ここにはスポーツのルールを承認しない「力」が反映されてしまうから。これは醜い。
今回、ジダンマテラッティは、確かにルールの一点を破ったのだが、より大きなルールには従う。だがスポーツという大きなルールの器そのものは破れていない。で、あるから一筋縄でいかないといいながら、問題はさして深刻ではないのだ。問題が深刻になるのは、一筋縄ではいかない、そのいかなさ具合がルールの器から溢れてしまうときだ。」 
 
この記事ではより大きなルールをいわゆるスポーツマンシップだとしたのだけど、今回処分を受けた北朝鮮女子サッカーの選手はこれには従わなかった。彼らが従ったのは、彼らなりの「愛国心ではないかと想像する。
 
北朝鮮という国においては、サッカー選手といえばエリートだ。いや、日本だってフランスだってブラジルだってサッカー選手はエリートといえばそうなんだけど、こちらは必ずしも国家を背負っているわけではない。北朝鮮の場合はおそらく国家を背負って試合に臨んでいるだろうから、こちらは文字通り「国家エリート」であるのだろう。
であるから、彼らが従う「大きなルール」が「愛国心」であるのは当然のことだ。愛国心至上主義者だから国家エリートなのであり、ゆえにスポーツのルールよりも、またそのルールの体現者たる審判よりも国の威信の方が大切。彼らにとって「審判へのケリ」は当然の行為であったのだろうし、また彼らのお国では彼らは国家の威信を守った英雄として扱われるのではないだろうか。
 
スポーツ、特にワールドカップやオリンピックのような国際イベントは、愛国心発露の場ではある。誰しも自分が所属する国には愛着心はあるはずで、自分の国のチームや選手が優秀な成績を収めると我が事のように嬉しい気持ちになるものだ。この場合の愛国心は、美しいものと言ってよいと思う。
 
だが、今回の北朝鮮女子サッカー選手の愛国心は美しくない。
 
ジダンマテラッティの事件は民族差別がきっかけということで、これも愛国心と同じように彼らのアイデンティティに関わる問題であった。この事件が「スポーツの器の中」で収まったのかどうか、微妙なところではあるけれど、少なくとも彼らは審判の裁定に従った。ジダンはレッドカードに従って、涙ながらに退場した。
 
スポーツは闘争の美点を際立たせる。スポーツという大きなルールの下では愛国心もその美しさを際立たせる。だが、愛国心が大きなルールを越えて至上のものとなったとき、その愛国心は醜いエゴに堕ちてしまう。
北朝鮮の選手たちは愛国心の醜さを示してくれたのだけど、彼らは彼らでその愛国心自画自賛をしているのだろうと想像する。
愛国心であろうとなんであろうと、自画自賛に終始するものは恐ろしい。自画自賛も結構だけど、他者からの賞賛なき自賛は...、百害あって一利なし。

テポ丼と牛丼

いよいよ米国産牛肉の輸入が再開される。吉野家の牛丼は早くて9月頃からの再開になるとのこと。待ちわびる人も多かろう(笑)。
 
本日のエントリーのタイトルは「テポ丼と牛丼」であるが、どちらもケシカランというお話ではない。そういうお話は博学なブロガーがあちこちで記事を書いていらっしゃるので、そちらをご覧になってください。私だってケシカランと思っていることには間違いないのだけど、もっとヒネクレタ視点からこの2つの問題を眺めてみたい。
 
といっても何も難しい話ではない。
TVで一般庶民らしき方の声が報道されていた。「米国産牛肉を買いますか?」という質問に、「怖いから買わない」と答える人。もちろん「美味いから買う」という人もいるのだけど、ここで問題にしたいのは「怖い」という感覚。テポ丼だって「怖い」。同じではないか(笑)。
 
この2つが同じなんて云ったら、博学な方からはお叱りを頂戴するに違いないと思う。実は本日のエントリーはそれが目的だったりする。かなりMがかったエントリー。
 
テポ丼は知れば知るほど怖くなくなり、牛丼は知れば知るほど怖い。模範解答はこんな感じだろうか? けれど私はここに敢えて異を唱えたい。
 
その道の専門家ならいざ知らず、情報も分析力もない庶民に判断を下せるほど「知る」なんてことがそもそも可能なのか? 私たち庶民にできることは「信用する」ことだけでしかないのではないか?
「もっともっと勉強しなさい」とこれまたお叱りを受けそうだが、世の中勉強嫌いの人のほうが遥かに多い。一日汗水たらして仕事をしたら冷えたビールをキューとやって...、何が悪い? この上まだ勉強しなきゃならんのか? バカいえ。勉強は専門家に任せてある。ちゃんと税金として料金も払ってある。これ以上勉強しろというのなら、税金返せ。
 
「怖い」となるのは信用できないことに起因する。信用あるものが「大丈夫」といえば、大抵の人は安心する。けれど、この2つのケースのいずれも安心できない。だから怖い。私たちが税金を払って養っている専門家たちが安心させてくれないのである。
 
牛丼のケースは、「国民が判断してください」だって。安心は自分で用意してください。そういうことでしょう。
テポ丼は、安心どころか不安を煽る。自衛隊は当てになりません。アメリカ軍も当てにありません。不安です、とくる。ところが不思議なことだが、日本国政府は当てになりません、とは言わない。ここが一番肝心なところなんだけど。
 
私たちは「安心を買う」ために税金を払っている。現在日本の国が用意する安心は、犯罪者は死刑にします、くらいのもんだ。医療もダメ、年金もダメ。もうそんな国、要らないかもしれない。
 
お上もさすがにバカではないとみえて、自分たちがそろそろ「要らない」と云われるかもしれないことをなんとなく察知している。で、繰り出した必殺技が「愛国心」。ホント、これにかかれば殺されてしまう。
やっぱりオツムの出来の良い人たちは考えることがキコリなどとは一味も二味も違う。「要らない」と思われたら「必殺技」。
ん? それってストーカーと同じではないのか?

「日本の伝統的宗教観、天皇教、靖国神社」についての愚考

日本人のための憲法原論 『日本人のための憲法原論(小室直樹著)』が面白い。
この本は一見何の関係もないように見える西洋近代史と日本とを見事につなげてくれる。目から鱗をボロボロと掻き落としてくれる一冊で、いわゆる「天皇教」についても解説されている。11章「天皇教の原理」がそれだが、ごくごく簡単にまとめてみると、
欧米列強の力を目の当たりにした明治の元勲たちは、日本という国を近代化・資本主義化する必要性を痛感した。そして国家の近代化・資本主義化には立憲政治が不可欠であり、憲法を制定するには宗教が必須の要素であると見て取った。ここでいう宗教とはキリスト教のような絶対神を擁する一神教であり、それまでの日本に根付いていた神道や仏教のような多神教ではない。日本に一神教の伝統がない。そこで明治政府が考え出したのが、天皇を日本人にとって絶対唯一の神とすること、天皇キリスト教の神と同じようにするというアイディアであり、これを実行に移した。
このことを裏付ける伊藤博文の発言が紹介されている。
「ヨーロッパにおける憲法は、いずれの歴史の中で作られて来たものであって、どれも一朝一夕にできたものではない。しかるに、我が国ではそうした歴史抜きで憲法を作らなければならない。ゆえに、この憲法を制定するに当たっては、まず我が国の『機軸』を定めなければならない。...ヨーロッパにおいて、その『機軸』となったものは宗教である。ところが、日本においては『機軸』となるべき宗教がどこにもない」
そして『機軸』として採用されたのが
「葦原の千五百秋(ちいおあき)の瑞穂の国は、これ吾が子孫(うのみこ)の王(きみ)たるべき地(くに)なり」
という天照大神の言葉の言葉、つまり、日本国は神によって繁栄を予め約束された土地だという、日本神話*1あった。この伝説は江戸時代の後期に既に「尊王思想」として理論的に完成されていたものであり、キリスト教の聖書にある「契約」と極めてよく似た構造を持つものである。これを明治政府は採用したのであった。

明治政府によって作り変えられた神道の教義

明治政府によって採用された神話は強化され、それ以後日本の『機軸』となった。この『機軸』が打ち立てられたことにより、日本は多神教の国から一神教の国へと宗旨替えをしたのだった。そして江戸時代までの「多神教的」神道は、明治政府によって弾圧されることになった。
一般的には明治初期に弾圧されたのは仏教であるとされている。廃仏毀釈運動があったことは歴史の常識だが、これも『憲法原論』によると徹底的に作り変えられたのは仏教よりもむしろ神道で、ここでは春日大社神職の話が紹介されているが、それによると「古くからの儀式はみんな明治時代で途絶えてしまった」ということらしい。また昔は集落ごとに数多く存在していた小さな神社も、ほとんどが統廃合されてしまった。これはわが和歌山県が生んだ博物学民俗学の巨星・南方熊楠の残した記述などからも明らかだ。
神道の教義が大きく変わったことは、明治以降に作られた神社の性格を見ることによってもよくわかる。靖国ももちろん明治以降のものだが、それ以外にも神武天皇を祀る橿原神宮桓武天皇平安神宮など、どれも天皇家の功績を顕彰するためのものだ。これは天皇教の権威、最高神アマテラスの子孫である天皇の神性、を強化する目的で作られたものである。ところが本来の「八百万の神々」の神道には、最高神などというものはなかったのである。たとえ最高神とされている神がいたとしても、それは一神教的な絶対の神ではなかった。古くからの神社の存在はそのことを表している。
例を1つ挙げると、菅原道真を祀る天神社。道真公は有能な人物であったらしいがそれゆえに大貴族の妬みを買い、大宰府に左遷され、その地で恨みを呑んで死んだ。その後、都でさまざまな天変地異が起こったことから道真公の祟りとされ、その祟りを「水に流す」ために北野天満宮に祀られる。その後は学問の神様として、未だに多くの人から崇められる存在になっている。祟りをなす怨霊も、祀られ「水に流す」ことが行われた後は、人々に恵みをもたらす善き神となる。これが日本の伝統的な宗教の姿なのである。
そしてこの天満宮の存在は、日本の伝統宗教では最高神の力というものがいかに貧弱なものかを表す好例にもなっている。そもそも最高神の力が強力なものであるならば、怨霊など何ほども恐れるものではないのだ。まして天皇最高神の子孫ではないか。その天皇が祟りを恐れたという事実は、天皇の祖先で最高神たる天照大神が当てにならないということを示している。

「溜める」靖国神社

ところが明治以降、天皇教となって一神教に衣替えをした日本では、神たる天皇がとても頼りがいのある存在へと変身する。その象徴が靖国神社である。

靖国神社は、明治2年(1869)に明治天皇の思し召しによって、戊辰戦争徳川幕府が倒れ、明治の新時代に生まれ変わる時に起った内戦)で斃れた人達を祀るために創建された。
 初め、東京招魂社と呼ばれたが、明治12年靖国神社と改称されて今日に至っている。
 後に嘉永6年(1853)アメリカの海将ペリーが軍艦4隻を引き連れ、浦賀に来航した時からの、国内の戦乱に殉じた人達を合わせ祀り、明治10年西南戦争後は、外国との戦争で日本の国を守るために、斃れた人達を祀ることになった神社である。

この記述は靖国神社のHPからの引用である。「尊王思想」は明治維新の原動力であり、この靖国神社(東京招魂社)創立の趣旨にもその一神教的思考が既に反映されている。招魂(=魂を招く)とはおそらく天皇に捧げた魂を招くということであろう。ここには鎮魂(=水に流す)はなく、あるのは顕彰(=溜める)である。だが創設の時点ではまだ「過去に斃れた」人たちを祀るための神社であった。
時代が進み、国の『機軸』が定められ、列強との生存競争が激しくなるにつれ、この神社が「過去に斃れた人」のための神社のみならず、将来斃れる人のための神社に変身していくのは当然の流れであったろう。そしてこの背景にはやはり絶対神となった天皇の存在がある。絶対神であるから、伝統的神道のように祟りなど怖れる必要はない。神の国天皇のために斃れた人たちが、どういう思いを呑んで死んでいったかなど、お構いなしになってしまった。天皇のために死んでいった人は英霊として顕彰される。これは絶対神たる天皇が定めたことであるので、だれも変更できない。靖国はそういう教義を体現する神社となった。
そしてさらに天皇教を『機軸』と定めた明治政府の教育(=布教)が行き届くようになるにつれ、絶対神に帰依する兵士が続々と誕生した。天皇の戦士を顕彰する靖国神社という舞台装置と相俟って、日本は「聖戦(=神の名の下の戦争。現在でも一神教世界には頻発している)」に突入する体制が整った。「聖戦」の目指すものは『八紘一宇』であった。

神の座から降りた天皇 神の亡霊にすがる靖国

代替文聖戦は日本の無条件降伏にて終了した。そして昭和天皇人間宣言
マッカーサーと並んだ昭和天皇の写真が新聞に掲載され、それまで「絶対神」と教え込まれていた天皇が宣言の通りの「人間」であることを国民は知った。これにて明治の元勲たちが作り上げた神話は崩壊したはずであった。
戦後に制定された憲法において、天皇は「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」となった。この規定は戦力放棄と引き換えに日本が勝ち取った条項だとされており、またGHQが日本の占領を穏便に行うためには必要な条項だったのかもしれない。しかし、ここにはまだ一神教的な色合いが残されている。
明治以前の日本の伝統的宗教観(=日本教)からすれば、天皇は祭主であった。明治以前にも天皇絶対思想がなかったわけではない。中国の「徳治思想」を取り入れ「天皇=皇帝」*2と為そうとした動きもあったが、後醍醐天皇による「反乱」を最後に、明治維新までそうした思想が日本の中心思想になったことはなかった。江戸期に興隆した「尊王思想」も江戸期においては異端の思想であった。
憲法を日本に押付けるに際して、GHQは日本の伝統的宗教観を研究すべきであったかもしれない。天皇を「日本国民統合の象徴」ではなく「日本教の祭主」と位置付けていれば、今日の靖国を巡る混乱はなかったであろう。
日本の伝統的宗教観から戦後の靖国を見れば、靖国で祀られる英霊たちは英霊ではない。英霊とは顕彰される者であり、何を顕彰されるかというと「天皇のために死んだ」という事実である。この事実は絶対神により一方的に顕彰される。だが、絶対神たる天皇がいなくなった今、彼らの死は鎮魂されるべきものとなる。恨みを呑んで死んでいったかどうかは定かではないけれども、彼らの死は鎮魂され、水に流され、人々に恵み(=平和)をもたらす神となるはずだ。
そういった意味では、現在の小泉首相が「心ならずも死んでいった人たちの魂を慰め、平和を祈る」ために参拝するのは正しい。
 
しかしながら、現在の靖国は未だ、創立時の宗旨から宗旨替えをしていない。絶対神たる天皇がいなくなったにもかかわらず、いまだその亡霊を引きずってその教義に執着している。A級戦犯*3を英霊とすることができるのは、その背後に絶対神があるからである。絶対神には平和も何も関係ない。その絶対神にどのように帰依したかを絶対神が一方的に判断し、顕彰する。靖国がいまだ守る教義とはかつての日本が『機軸』とした教義だ。そしてそれを守ることは新たな憲法で認められた宗教法人の権利ではある。
しかし、そのような宗教法人に現在の憲法によって身分を定められた公務員が参拝することは許されない。なぜならば現在の憲法は、その宗教法人の教義を否定することによって生まれてきた憲法だからである。ゆえに公務員が靖国を参拝することは、現憲法の精神を否定することになるのである。このことは決して「個人の自由」などではない。そのような自由が許されるならば、憲法など何の意味も持たない。

宗教のない社会などない

日本人の多くは、自らを「無宗教」だと思い込んでいる。靖国を巡る混乱の大元はここにある。当人が自覚しているか否かに関わらず、人は何らかの宗教観(=価値観)に縛られている。靖国を巡る論争がかみ合わないのは、それが神学論争であるからである。
現在でも靖国を支持する人たちがいて、その人たちは靖国に英霊が祀られていると感じることで安らぎを得ることができる。これは靖国の教義を支える絶対神を信仰しているからである。そしてこの場合、必ずしも絶対神天皇とは限らない。そもそも神とは、存在するかしないかは証明することができないものであって、その人が信仰する限りにおいて実存するといったものだ。
かつてこの教義が日本に大きな不幸をもたらしたのは、神が実際に存在すると考えたからである。天皇=神と考えられ、天皇の意思(と思われたもの)が絶対となった。天皇教に限らず、これはどの宗教でも見られる現象であり、過去のキリスト教においてもこの現象が起こったがために宗教的対立から抗争が繰り返し行われた*4。このことは逆に、神が信仰の中でのみ実存する限りにおいては、大きな抗争を引き起こすことがないということを示してもいる。
話は脱線したが、靖国の神を信仰しない人が、靖国の神から安らぎを得られないのもまた、当然のことなのである。そしてこの人たちは靖国を別の宗教観(=価値観)を元に否定する。これでは議論のかみ合うはずもない。
政治(=まつりごと)を行う者たちは、自らがどういった価値観(=宗教観)に基づいた法によって己の身分を定められているのか、そこにもっと自覚的であるべきだ。むしろ公務員には信教の自由などないとするべきかもしれない。これはこれでまた大きな問題を孕むのだけれど。

修正

「現在の小泉首相が「心ならずも死んでいった人たちの魂を慰め、平和を祈る」ために参拝するのは正しい。」

「現在の小泉首相が「心ならずも死んでいった人たちの魂を慰め、平和を祈る」ために参拝するのなら正しい。」

*1:この神話は天武・持統天皇の頃に確立したものであるが、これは日本の伝統的な思想を書き表したものではなく、むしろそれまでの「大和」の思想を否定するために作られたという説がある。これ もまた極めて興味深いものなので、また別の機会に紹介したい

*2:天皇」に「皇」の字が使われていることからも「徳治思想」から日本教も影響を受けているのは間違いない

*3:先ごろA級戦犯合祀を巡っての昭和天皇の「お心」を表すとされるメモの内容が公表されて、さまざまに議論となっている。私が昭和天皇に抱いている感想からすれば、「不快感」は当然だろうと思う。昭和天皇は戦前においても自らを「絶対者」と考えたことはなかったはずだ。美濃部達吉天皇機関説を支持したといわれているし、軍部に偶像として祭り上げられた自分を自覚していたであろうから。そのことで昭和天皇自身の戦争責任が完全に免責されるとは考えないが、それは措くとして、昭和天皇が自分を偶像として祭り上げた指導者(=A級戦犯)たちとその偶像によって死に追いやられた英霊達とを同列に置くことに不快感を持つことは、一人の人間として至極もっともな感情だと思う。

*4:「絶対」を認めない仏教においては、宗教対立による抗争が起ったという記録がない。ただし日本だけは例外で、日本では仏教間の教義を巡っての対立から抗争・弾圧が行われている

欽ちゃん球団解散〜欽ちゃんの決意を讃える

欽ちゃん泣いた:茨城GG解散へ

 お笑いコンビ「極楽とんぼ」の山本圭一(38)が少女に酒を飲ませ、みだらな行為に及んだ不祥事が、思わぬ波紋を広げた。山本が所属する社会人野球チーム「茨城ゴールデンゴールズ(GG)」を率いるタレントの萩本欽一(65)が19日、都内で会見し「チームの解散」を電撃発表。時期については明言を避け、球団関係者も解散は防ぎたいと含みを持たせたが、萩本の決断は固い。野球界活性化に貢献した人気球団だけに各方面に衝撃が走った。

このニュースに接したとき、なぜかとても嬉しかった。欽ちゃんの決断を高く高く評価したいと思った。その理由について触れてみたい。
 
欽ちゃんの決断については賛否両論分かれると思う。批判とまではいかなくても「そこまですることはないのでは」という意見は出ているし、球団存続に向けての署名運動なんかも開始されたと聞く。
 
犯罪は個人の行為であり、球団には何の責任もない。故に球団を解散させる必要もない。むしろ球団を解散させることで各方面に迷惑をかける...。とてもわかりやすい論理だ。わかりやすい論理というよりも、わかりやすい論理になってしまった、と云った方がよいだろうか? こういう論理、ではなくて論理の出発点は、今や私たちには馴染みのものになってしまっている。
 
この論理に納得する者は、一人一人の人格を独立したものだと考えいる。だから球団と山本何某も別の分離したものだと考え、山本何某の犯した責任は球団にまで及ぶことはない、と考えるのである。これはこれでスジの通ったものだし、この論理に批判を加えるつもりはない。
だが欽ちゃんはそうは考えなかったようだ。山本何某と球団と自分とを分離して考えなかったのである。山本何某が犯罪を犯したと聞いた後も、彼を分離しなかった。だから球団を解散させる決断に至ったのだと思う。
欽ちゃんとて、球団に責任があると考えているわけではないと思う。責任論でいけば球団は無罪だ。欽ちゃんの思考経路はそんな道筋を辿ったのではなくて、山本何某を排除せねばならなくなった球団は、もうこれは欽ちゃん球団ではないと感じたのだと思う。選手の管理責任云々ではない。
この事件を受け、欽ちゃん球団には山本何某を受け入れる余地がなくなってしまった。欽ちゃんや他の者の意志に関係なく、もう山本何某を排除する以外に道はない。つまり自己決定権を奪われてしまった。オーナーである欽ちゃん以上の意志が球団のあり方を決定してしまう。もはや野球が好きで集まっただけ、とはいえなくなってしまった。欽ちゃんにはこれが絶えられなかったのではないか。
 
欽ちゃんの決定は、ある意味ではワガママである。その決定は他のものに影響を及ぼす。他の選手、対戦相手の球団、応援してくれている地元...。欽ちゃんとて、そんなことは十分承知してると思う。だが、欽チャンは欽ちゃん球団を創設した原点を何より大切にしたのだと思う。周りの者は、そこを十分汲んでやる必要がある。
そして、その欽ちゃんの意志を充分汲んだのであるなら、取るべき行動は見えてくるのではないか。それは欽ちゃん球団を存続させることではない。欽ちゃん球団は解散した上で、もう一度原点に立ち戻って、球団の創設をやり直すのである。その球団に欽ちゃんはいないかもしれないが。
 
私は、こういう欽ちゃんの行為を指して「志に殉ずる」と云うのだと思う。バカバカしいほどに純であるが、周囲の利害関係を優先して球団存続を図るよりもよほど素晴らしいことだと思う。全てが利害関係によって動かされるようになってしまった今の世の中においては、尚更だ。欽チャンは利害よりも「野球が好きで集まった」という志を優先したのである。
  
私は欽ちゃんの決意を讃えると同時に、利害を重視するあまり荒んでしまった今の日本の社会に投げかける大きな一石になることを望む。そして、このような欽ちゃんのワガママを余裕を持って受容できるような社会になることを望む。