ワーキングプアを是認する人たち

あれからワーキングプアについてのいろいろな意見を知りたくて、いろいろとブログを訪問してみた。中には当然ワーキングプアの出現を是認する意見もあって、これはこれで一理あるものであったりする。
劇場管理人のコメント:弱者を弱者にしている、唯一にして決定的な要因は、「強者を理解していない」ということ

一度も強者になったことのないヤツには、想像もつかないだろうが、実は、ほとんどの強者は、かなりぬるい。

その上、彼らの確固たる安定した地位は、見た目ほど安定なんかしてない。

つけ込む余地、蹴落とす余地なんてありまくりだよ。

ちょっと視点を変え、ちょっと工夫するだけで、逆転するチャンスなんて、いくらでもあるんだ。

複雑な現実社会における戦いというのは、何百万種類ものカードがあるカードゲームみたいなもので、才能や環境というのは、その手持ちのカードだ。
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結局、このカードゲームに勝つ方法は、

まず第一に、最初に自分に配られた手持ちカードである、生まれつきの知能だとか、教育だとか、体力だとかが、唯一のカードだとは思わないこと。

第二に、世の中に散らばっている、様々なカードを、拾い集めるため、つねにアンテナを張っていること。

第三に、カードは組み合わせ次第で価値を持つものだから、最初に配られた強力な手持ちカードに安住してろくにカードを探していない強者なんかより、よっぽど強いカードの組み合わせを作れることなんだ。

にもかかわらず、ほとんどの弱者は、自分の手持ちのカードの悪さを嘆くばかりで、アンテナを張ろうともしないし、より強力なカードの組み合わせを工夫したりもしない。

自らを強者だと自認しているひと、強者を目指す人には強い説得力があると思う。そして、これぞまさしく「資本主義の精神」である。強者を理解していない=「資本主義の精神」を理解していない、なのである。

資本主義の精神

プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 (岩波文庫)
この古典的名著によって「資本主義の精神」は明らかにされた。「資本主義の精神」とは、絶対神への信仰と結びついた際限のない勤勉の精神である。故に、強者でさえぬるい。「資本主義の精神」を体得したものにとっては、「そこそこの勤勉」は許されない。
そして「資本主義の精神」は際限なき勤勉から生み出された富を尊重する。富は際限なく生み出していかなければならない。自分が必要とする分だけの富を獲得しようとする「そこそこの勤勉」は罪悪である。弱者である。それが資本主義の精神だ。上の記事は「資本主義の精神」を体現している。

だが資本主義者たちは転向する

神への信仰と結びついた「資本主義の精神」は強力無比だ。なにせバックに控えるのは神だからだ。暴力団の比ではない。
しかし、現代の「資本主義の精神」にはもう神はいない。背後にあるのは単なる利己主義であり、「資本主義の精神」はその利己主義をカモフラージュするための衣装にしかなっていない。
神がいなくなったがために資本主義者は「そこそこ」で転向する。残りの人生を豊かに暮らせるだけの富が蓄積できたのであれば、競争社会からリタイアすることを望むのである。余生を豊かにのんびりと過ごすことを望む。こんなことができるのも「勤勉さ」を命じるのは神ではないからだ。神が命じるのなら死ぬまで勤勉でなければならない。リタイアなど許されないはずだ。
中にはリタイアしない資本主義者もいる。現在の資本主義社会では正真正銘の強者である。ではこの者たちは神への信仰を保持しているのかというと、それも違う。それは単に「勝つこと=富を獲得すること」が彼らにとってのアイデンティティになったというだけのことだ。
そしてもうひとつ重要な違い。それは神が背後にいるときには「富は生み出すもの」なのだが、神が背後にいなくなれば「富は獲得するもの」に変質してしまうということである。複雑な現実社会を富の争奪戦だと捉える上の記事は、「富は獲得するもの」であることが前提となっている。

堕ちた資本主義は公正な秩序を破壊する

今や利己心を覆い隠す衣装でしかなくなった資本主義は、公正な秩序を破壊する原理に堕ちてしまっている。世の中を富の争奪戦(=競争社会)と捉え、弱者が生存する権利すら省みない。「神の前では平等」という、同じく絶対神への信仰から生み出された「人は皆等しく生存権を持つ」という原理すら否定してしまう。
ワーキングプアを是認する者たちとは、勤勉な利己主義者でしかない。