資本家=経営者が必要でない時代がくるか

本日も持たざる者のルサンチマン丸出しでいってみますか。
 
劇場管理人のコメント:年収300万の人より、年収1200万の人の方がよっぽど収奪されている時代
またもや劇場管理人さんから引用させています。

ただ、プログラマーの生産性というのはほんと残酷なほど差がでる上、人月の法則がクソの役にも立たないので、仮に1200万あったら、1200万 >>>> 600万 * 2 >>>> 300万 * 4というのが実感です。

こちらはもともとは404 Blog Not Found :プログラマー募集中にあったもの。それを「年収300万の人より、年収1200万の人の方がよっぽど収奪されている時代」で引用されている。
プログラマーのように創造性が必要な仕事では、こういったことはあるでしょうね。

もっと分かりやすく言えば、本来なら、年収1200万の人間というのは、年収1800万を支払っても、まだお買い得なぐらいの働きをしてくれるのに対し、年収300万の人間は、年収300万でも割高なくらいなのである。

たとえば、年収1200万の人間は、本来なら1800万円もらえるところを、ピンハネされているイメージだ。いや、純粋に経営合理的に考えれば、3000万払っても惜しくないという人の年収が1200万になっていることなど、珍しくもない。

単に、1200万円の人材が、探しても、探しても、探しても、見つからず、あるいは、見つけられても、自社に来てもらえないから、仕方なくそこらへんにいくらでもいる300万円の人間を代用に使っているだけなのである。

ゆえに、高額所得者の方がよほど搾取されているという論法。では、搾取しているのは誰なのか?
 
創造性から富が生まれる。創造性は高額所得者であろうがなかろうが、労働者のものだ。これを資本家=経営者は搾取する。

実際、経営の現場において、金をもらう側ではなく、身銭を切って金を払う側になったことのない人間には、このことの切実さは、分からないのかもしれない。

労働者の生産性がそのまま経営者に帰属するものだと、なぜ何の疑問もなく考えることが出来るのだろうか。
確かに生産=富の創造には資源が必要だ。資源を集めるのに資本が必要? 
必要不可欠というわけでもあるまい。単にあれば便利というだけだろう。物々交換よりも貨幣を介した交換の方が便利であるのと同様に。 

なんで、時代とともに、この傾向が顕著になってきたかというと、古くはオフィスオートメーション、最近ではITシステム化が進んで、単純作業が、機械やシステムに置き換えられるようになったからだ。

単純作業は、誰がやっても、それほど生産性はそれほど変わらないから、仕事における、単純作業の割合が高かった時代は、それほど生産性に違いはなかった。
・・・
単純作業が徹底排除された後に残る作業というのは、生産性に大きな違いの出てしまう部分なのだ。

資本が生産性を向上させるのは、単純作業を機械設備でもって効率的に行う場合である。創造性を発揮するのに資本は何の関係もない。いや、PCだって資本とみれば関係なくはないか。けれど、単純作業の生産性向上ほどには深く関与しない。
PC程度のモノなら莫大な資本がなければ用意できないものではない。ネット環境を築くには莫大な資本が必要だが、これはもはや道路や鉄道や空港などと同様の社会インフラだ、つまり共有の資本である。
共有の資本と極小の私的資本で生産を行う。もはやほとんど共産主義ではないか。
 
価値を創造する労働者は、資本家がいなければ彼が本来受け取るべき価値を搾取されずに済む。
で、資本とはつまるところ情報でしかない。IT技術の進展は情報処理能力を飛躍的に発展させた。情報処理の自由度が昔とは比べ物にならないくらい高くなった。もはや資本という情報を資本家に集中させなければ上手く運用できないわけでもあるまい。
 
技術の進展で単純労働者の価値が減少した。それを認めろと資本家=経営者はいう。では、時代と技術の進展で資本家=経営者が必要なくなったのなら、彼らは素直に退場するだろうか?