UTS【日本の国防について】アンケート場外戦

Under the Sunにて、7月13日から【日本の国防について】と題してアンケートが行われている。
 
質問:あなたが考える、この先、日本がとるべき国防の方向は?
 
1.非武装をすすめ、他国から侵略されても抵抗をすべきではない
2.他国から侵攻は防衛しても、攻撃はおこなうべきではない
3.専守防衛は現在でも可能なので、現状を変更する必要はない
4.武装を強化し、専守防衛に徹すべし
5.武装強化・憲法改正をおこない、専守防衛に徹すべし
6.日本にとって危険な国に対しては、先制攻撃を加えるべき
7.核兵器の開発までふくめ、軍事力を増大していく必要がある
8.その他
 
7月21日0:00の締め切りまでに何らかの回答をしたいと思っているのだけど、その前に、このアンケートを巡って場外戦が展開されていて、そちらが大変興味深いので、アンケートに答える前に場外戦について、少し触れさせていただく。
 
まず、場外戦の展開については華氏451度さんのコチラのエントリーをご覧あれ(手抜きで申し訳ありません。でも、私が書くより華氏さんが書いたものの方がずっとわかりよいです)。
 
事の発端は拙ブログにも度々コメントを頂く布引洋さんで、布引さんが華氏さんやアルバイシンの丘さんへ寄せられたコメントを読んで、私もしばらく考えていた。布引さんのコメントは誠に当を得ていると思うのだけれど、私は思うに、発案者の発掘屋さんの意図は布引さんが危険と指摘したまさにその点にあったのではないか、つまりその危険性を逆用して、2ちゃんねる用語でいうところの「釣り」をしようとしたのではないか、そんなふうに思うのである。
この点には布引さんも思い至っているようで、アルバイシンの丘さんに寄せられたコメントに
>UTCは親切にも、模範解答を出来るようにアンケートを考え付いたのかも知れません。
と書いておられる。ここでいう模範解答とは「漫画で武装した軍事オタクのネットウヨ」への攻撃に対する模範解答である(現時点では残念ながら、模範解答を作成するための資料となるようなTBは寄せられてないようだ)。
 
このように考えたのは次のような理由からである。まず、発掘屋さんの他の記事を読んでみるに、その主張は「読売新聞的」なものからかけ離れていると思われること。わざわざ「日本の国防」などという、その筋の人たちを刺激しそうなタイトルをつけていること。そして軍備増強の方向への選択肢が細分化されていること。以上のことから、軍備増強派のTBを期待したこと、そのTBの意見にそのまま賛意を示すつもりではないこと、が読み取れると考えるのだ。
 
もう少し掘下げて考えてみる。実は私は、このアンケートに対する布引さんの指摘に違和感を感じたのだ。どこに違和感を感じたかというと、「非常に悪質です」という文言。この文言がなければ恐らくこのエントリーを書くことはなかっただろう。
上にも書いてあるとおり、布引さんの主張は当を得ている。布引さんの論理に従って思考を進めると「非常に悪質」という結論に導かれることになる。けれど私は、正直に告白するが、「非常に悪質」とは考えたくなかった。だから「非常に悪質」という結論に陥らない理由を探した。それが上記の理由なのである。
 
今、「理由を探した」と書いたが、私が探した方法は、布引さんの論理の破綻を見つけ、その破綻ゆえに「非常に悪質」とは言えない、と結論付けるという方法ではない。私の組み立てた論理は、実は布引さんの論理そのままである。ただ出発点をひっくり返しただけだ。そしてそれだけのことで、導き出される結論は180度違うものになる(繰り返すが、布引さんはそのことに気がついておられる)。
 
ただ私は信じたかっただけだ。UTSの名で行うアンケートが「悪質な意図」をもって為されたものではないということを。認識が浅かったという可能性も捨てきれない。もちろん、悪質な意図があった可能性も、だ。しかし、論理はその意図までも明らかにすることはない。論理のその先は、ヴィトゲンシュタインが言ったように沈黙するしかないのだけど、実は私たちはその「沈黙するしかない」世界の中で生きているのである。論理は後付の理由でしかない。
 
念のために記しておくが、私は布引さんが「非常に悪質です」と断言したことを悪質だと考えているわけではない。これは布引さんが布引さんの感覚に基づいて発言されたことであるわけで、それをまた悪質と断言することは、これまた悪なのである。これは忌むべき悪の連鎖である。
ただひとつ、偉そうなことを言わせてもらえば、何かを「悪」と断定するのは、よほど慎重に掛からなければダメだということ。同じ論理も見方次第で善にも悪にもなりうる。片方の視線で「悪」と断定された場合、同じ論理で「善」と断定する者とは接点を見い出すことが出来ない。違う出発点から同じ方向性を持って進むことになるので、文字通り「平行線」になってしまう。
 
Under the Sunの試みの眼目はこの点にあるのではないかと思う。つまり「平行線」にならない、ということ。Under the Sunはいろいろな人がそれぞれの視点から発言する場であり、その発言の「論理」を批評するのではなくて、発言の出発点を発見する場所なのである。そしてまた、この見方も私の視点での発言に過ぎないのだけれど、でも、なるべく多くの人に賛同してもらいたいと思う。Under the Sunは賛同と共感を求める場でもある。
 
      

先制攻撃論

数日前のことだが、仕事が休みになって朝からTVを見ていたら石破元防衛庁長官が喋っていた。うろ覚えなのだが、以下のような内容だったと思う。
まず一応「日本は専守防衛」との前提から出発。この前提から出発しながら、ある想定を行う。
もし、敵(北朝鮮?)ミサイル基地においてミサイル発射の準備が行われているという確実な情報が入ったら? そして、その敵はミサイルを日本に向けて発射するという確実な意思表示があったとしたら? 発射されたミサイルを防衛する手立てはない。ミサイルが発射され、着弾するとわが日本に大きな被害をもたらすことは確実だ。もしこの被害を防ぐとするならば、ミサイルが発射されるより前に叩くしかない。かといってミサイルがあるというだけで叩くわけにはいかない。これでは専守防衛ではなくなる。専守防衛でありながら、敵基地を攻撃できる境目はどこか。それは「攻撃に着手した時点」である。そしてその時点とは「燃料が注入された時点」。ミサイルの液体燃料はいったん注入されると抜き取ることは難しい。だからこれは確実に発射の意志があると看做される。そしてその時点で敵と日本が事実上戦争状態であったなら...。その時点での敵基地への攻撃は、日本への被害を防ぐという専守防衛の観点から逸脱したものではない、という理論なのである。
石破元防衛庁長官の理論の骨子はこのようなものであったが、このほかにいくらか付け足して喋っていたことがある。私が抱いた感想では、実はこの付け足しで喋っていたことの方が重要なのでは、と思っている。その内容だが、まず、
「敵が親切に日本に向けて発射するという意思表示をしてくれることなど、まずない」。笑ってしまうが、「まずない」といいながらその危険性をまくし立てた。ある種の詐欺だが、その危険がないとは言い切ることが出来ないので、詐欺であると断罪することは出来ない。巧妙である。そして、
「日本は専守防衛で、敵基地を叩く能力は現時点では持ち合わせていない。これはアメリカにお任せしている。だからもし、アメリカが攻撃してくれなければ日本はなすすべがない。果たしてこれでいいのか?」という問いかけ。これが彼が一番言いたかったことだろう、きっと。
 
その思いを強くしたのは、他チャンネルでみた軍事評論家小川和久氏の話を聞いたからで、小川氏は次のような内容のことを述べていた。
専守防衛が理由であれ敵基地を攻撃すれば、それは全面戦争に突入するということである。その時点で「日本への被害を食い止めるため」なんて理屈は通用しなくなる。そして自衛隊は現実の体制としてまったく「専守防衛型」になっている。全面戦争を遂行する能力はまったく持ち合わせていない。戦争を遂行する能力とは、終戦までのシナリオをいかに多彩に描けるか、という能力である。日本の自衛隊はこの部分は全くアメリカに依存しているし、アメリカも日本が全面戦争を遂行する能力を持つことは望まないだろう。ゆえに、アメリカは日本が先制攻撃を行う、つまり全面戦争への引き金をひく、能力を持つことは望まないはずだ。日本がその能力をもつと、アメリカは自ら望まない戦争に引き込まれる可能性が生ずる。アメリカは自ら起こす戦争に日本を巻き込むことは望んでも、その逆は望まない。」
まったくスジが通った話であろうと思う。
 
石破元防衛庁長官の話を小川氏の話と比較すると、その真意が見えてくる。石破氏の真意は「日本が全面戦争を遂行できる能力を持つこと」であろう。アメリカから独立して。かつての大日本帝国のように。
 
アメリカから独立することは望ましいことである。経済的にも、軍事的にも。心ある日本人の多くが、アメリカの属国と化した日本の現状を嘆いている。現在、憲法9条擁護を展開する人が多くなっているのも、それは9条改正⇒集団的自衛権容認⇒米軍と自衛隊自衛軍)との一体化という動きに歯止めをかけるためである。しかし9条改正が、アメリカからの独立への動きへと繋がっていくならば? 
現在「保守」と自認する人々の考えは、ここにあるのではないか? それだもので「日本人としての誇りが大切」という主張になるのであろう。「愛国心」の議論もここに繋がっていく。
 
話はまったく一筋縄ではいかない。政府与党の内部でも考えは違っているようで「小泉・竹中」はアメリカの手先の売国奴であるが、安倍・石破あたりはアメリカに日本を売るつもりはないように見える。安倍は岸の孫であるのだから、これは当然であろう。
 
9条を擁護しようと考える人間にとって問題なのは、いずれの勢力も9条は改正すべきだと考えていること。その後の動きについては考えが違うようだが、とりあえず9条改正までは意見が一致している。
 
9条を擁護しようとするなら、石破元防衛庁長官が示した「心配理論」に対抗できる「安心理論」を構築しなければならない。小川「安心理論」は「先制攻撃論」に対しては有効だが、9条改正阻止には行こうではない。また「戦争状態にならないよう、外交努力を」という話では「心配理論」に対抗できない。
石破「心配理論」は詐欺すれすれのものだれど、心配理論はそれで十分説得力を発揮する。むしろ、それだからこそ説得力を発揮する。これをどう突破するか。
 
たぶん「突破」することは不可能だ。できるとすれば「受容」することだけだろう。「心配理論」を受容し、徐々に9条が示す理想へ向かって現実と妥協を繰り返していく。一足飛びに9条の理想を実現することもまた不可能であるから、9条を生かす現実的な方法は「現実との妥協」しかない。そう考えて初めて「譲れる線」と「譲れない線」がハッキリするだろうし、大切なものもハッキリ見えてこよう。大切なのは、国家か、国民か、一人一人の命か、伝統なのか、価値体系なのか、自由か、平等か?
「より大きなルール」が必要だ。

やっぱりジダンのこと

先日もジダンの最終プレーについて触れたけど、心配した通り、やっぱり大騒ぎになった。あっちこっちのブログでもジダンの評価を巡っていろいろと意見が飛び交っている様子。
この話は論じるのには手頃感がある。スポーツの中での話しだし、人の生き死にが関わっているわけでもないし。とはいうものの、この問題が抱えている問題は複雑で、それこそ一筋縄で解ける問題ではない。
それにしても、こういう問題が起こるにつけ思うことは「みな、繋がっているんだ and 繋がりたいんだ」ということ。先の記事で私は「個人のことだから、ほっとけ」と主張したんだけど、放っておけないみたい。これにはジダンという有名人だから、という意見もあるようだけど、それは違うと思う。ジダンだからその報じられたという面はあるにせよ、それは報じられるきっかけであったに過ぎない。何かきっかけがあればそれが有名人であろうがなかろうが報じられ、議論を巻き起こす。これは「繋がりたい」という欲求の現われではなかろうか。いささか屈折した現れ方ではあるけれど。
この問題のなかで、評価できると感じたのはジダンの釈明。これは「一筋縄ではいかない」ということをありのまま示すものだったと思う。ジダンは自らの行為を誤ったものだと認め謝罪しつつも、後悔していないと発言した。
ジダンの行為が誤ったものであるという点から出発しても、マテラッティの言葉が誤ったものであるという点から出発しても、どちらか片方から出発したのでは事の本質を見誤る。ジダンマテラッティも何を誤ったのか、そこを見極めなければならない。ふたりの誤りに共通するもの。そこを見い出さなければ、問題の本質を突いたことにはならないのではないか。
では、その共通点、本質とは何だったのか? 私が思うに、それは「連鎖」させたことだ。
マテラッティが挑発したのは何らかの理由があったのか? それはわからないが、まあ、あったとしよう。あのようなゲームには挑発を誘発する理由などいくらも転がっていよう。何らかの理由からマテラッティが挑発し、連鎖の始まった。その連鎖にジダンが連鎖を重ねた。そこへまた周囲の者が連鎖を重ねていく...。報道ではつまらない場外乱闘も起きていると聞く。
どちらも誤りを犯したなら、どちらもルールに従って処罰されればよいのだ。この問題は「死刑」の問題などとは違ってルールそのものの妥当性が問われているわけではないのだから、連鎖の詳細を明確にし、ルールに従って処罰を行い、連鎖を断ち切る。これで一件落着ではないのか?
ジダンは釈明で「一筋縄ではいかない」彼自身の理由を示したが、それでもそのあとはルールには服するとした。一方のマテラッティは、いまだ自分は「一筋縄だ」と主張している模様だ。これはあまり潔い態度だとは私は思わない。が、その私の感触、そして私以外の多くの人の感触をルールに反映させてはならない。そんなことをすればルールがルールでなくなる。
スポーツの美点は、それが闘争の一形態でありながら、完全にルールの支配の下で行われるというところにある。ルールの支配があるからこそ、闘争の美点が映える。プレーをする者もプレーを鑑賞する者も、安心して闘争の美点を楽しめる。けれど、例えば一時期のイラク北朝鮮のように試合の結果が選手の生命の安全を脅かすという事態になると、スポーツの美点が損なわれてしまいかねない。ここにはスポーツのルールを承認しない「力」が反映されてしまうから。これは醜い。
今回、ジダンマテラッティは、確かにルールの一点を破ったのだが、より大きなルールには従う。だからスポーツという大きなルールの器そのものは破れていない。で、あるから一筋縄でいかないといいながら、問題はさして深刻ではないのだ。問題が深刻になるのは、一筋縄ではいかない、そのいかなさ具合がルールの器から溢れてしまうときだ。こうなると事態は「血を見るまで」収拾がつかなくなる。
けれどスポーツのように大きなルールの器が破綻しないのであるならば、器の中での小さなルールの破れはむしろ歓迎すべきことなのかもしれない。小さな破綻とその破綻を修正する行為は、より大きなルールの重要性を知らしめ、高める効果をもつ。いや、そのようにルールは運営されなければならない。ただ連鎖を断ち切るだけではない。悪の連鎖を断ち切り、善の連鎖に変換させなければならない(余談だが、悪⇒善へ連鎖の変換が「水に流す」の正しい意味だ)。
悪の連鎖は「否定」から引き起こされる。相手の「否定」である。悪の連鎖はなるべく早い時点だ断ち切るべきだ。マテラッティジダンも、悪の連鎖を引き継ぐべきではなかった。そんなことは明らかだけれど、けれど、彼らが悪の連鎖を引き継いだといって非難する人々は自問してもらいたい。あなたはいかなる「否定」も受け入れることができるのか? と。
できると答える人は、悟りを開いたような人か、もしくはウソつきかのどちらかだ。大多数の人がいかなる「否定」も受け入れることができるとはできまい。ここでいう「否定を受け入れる」とは「言葉に暴力で応えない」という意味ではない。そんなものは「否定を受け入れる」ではない。単なるヤセ我慢だ。ヤセ我慢はよくないし、みっともない。ヤセ我慢をするくらいなら暴力で応える方がまだマシだし、ヤセ我慢を強要することもこれまた暴力である。
ジダンが引き起こした今回の問題を「暴力はダメ」という安易な結論で幕を引いてはならない。そんな結論は今まで幾度下されたか知れないけれど、その度にその結論は現実に否定されている。無意味な結論を下すことそのものに意味がない。
人間は暴力というエラーをどうしても引き起こしてしまう生き物だ。だがこのエラーを無理に矯正しようとすると人間そのものがエラーになってしまうし、人間が営む社会もエラーとなる。繰り返すがそれでは「矯正」も「暴力」の一変種に過ぎない。暴力を含め、人間の引き起こすエラーをある程度まで「受容」すること。「受容」するとは悪の連鎖を断ち切り「水に流し」善の連鎖に変換すること。この「ある程度」がどの程度のなのかが難しいところだが、その程度が高いほどその社会は健全だといえる。
ジダンの最終プレーとその釈明は、この「受容」の好例ではないかと思う。ジダンは誤りを犯し、その誤りを謝罪した。ここでいうジダンの誤りは彼の暴力行為そのものではなく、マテラッティからの連鎖を絶てなかったこと。断てなかった理由とはつまりジダンの心の弱さであり、彼はそれを示唆(全てを告白したわけではないし、またその必要もないが)し、より大きなルールに従う態度を示した。
彼は自分の弱さを盾に自分の行為の正当性を主張するようなことはしなかった。だが、守るべきもののためには闘うという態度も示した。つまり「正当性を主張しない」ことと「守るべきものの為に闘う」の矛盾を受け入れ、その処遇を大きなルールに委ねたのである。彼のこの態度のより、大きなルール(明示することが難しい、ルールというよりはスポーツマンシップといったもの)の存在が際立ったのである。ジダンという英雄と称される選手といえど大きなルールの前ではひとりのスポーツマンにすぎない。ジダンが特に子供たちに向かって謝罪した真意はここにあったのだと思う。

付け足し

>ヤセ我慢をするくらいなら暴力で応える方がまだマシだし、
は反発を招くかな? 先に言い訳をしておくと、ジダンが振るった程度の暴力なら、ということ。もし仮にピッチ外で武器を持って暴力を振るった、なんてことになれば、これは言語道断。この場合、ジダンの暴力は「スポーツ」という器の中から大きく逸脱していることになる。あくまで「スポーツ」の枠内で解決できる暴力という意味。

この世は一筋縄ではいかないもので

ここ数日の天気は単純肉体労働者にとってマコトに辛いものだった。気温は高いわ、湿度は高いわ、お日様は容赦なく照り付けてくるわ、何が Under the Sun だ、なんて思ってしまう。そんなのは冷房の効いたオフィスでスマートなお仕事をなさっている人たちのちょっとした戯れか、ぶるじょわの気晴らしか...。でもこれが冬になると、お日様はこの上ない恵みなんですよね。そして春や秋の素晴らしい季節には、せせこましい箱の中で神経をすり減らして日々生活を送る人々が哀れに思えてしまう。
人間なんてマコトに勝手なものなんだけど、ここは「この世は一筋縄ではいかない」ってことにしておきましょう。

人はなぜ繋がりを求めるか――青年マルコの冒険(10)by愚樵空論

当エントリーは、Under the Sunに掲載のコラムと同じ内容のものです。TBを当ブログより送らせてもらいますが、当コラムへのTBはUTSのコラムの方へお願いします。
 
草原を歩くマルコの背後から迫って来るものがある。どんよりと垂れ込めた雨雲が、マルコを追い詰めつつある。遠くで雷鳴が聞こえる。
「これは、降られるな。」
マルコは、呟いた。
前方に、あれは何の木だろうか、大きな木が見える。マルコはその木の陰の元で雨をやりすごすことに決め、歩く速度を速めた。が、雨雲はすぐにマルコに追いつき、頭上から大粒の雨を降らせる。
マルコは大きな木をめがけて駆け出した。だが木の下にたどり着いた頃には、全身がズブ濡れになってしまっていた。
「雷がこなければいいのだが...」
大きな木は、落雷の危険が高い。雷が近づいてくるようなら、木の傍を離れて濡れるのを覚悟で地面に伏せていなければならない。幸い、雷はこちらには近づいてくる気配はない。
「やれやれ、助かった。」
マルコは背負った荷物からタオルを取り出し、濡れた体を拭いた。
「それにしても大きな木だな。何の木だろう?」
木を見上げてみる。ふと、マルコの背の高さの倍くらいのところへ、掛け軸のようなものがぶら下げられているのに気がついた。
「あれは何だ?」
そのものをよく見ようと、数歩、木から遠ざかって見てみる。
それはやはり掛け軸だった。小さな枝にぶら下げられている。そこには「空即是色」の文字が書かれてあった。
「やあ、マルコ君。ようこそ」
頭上で声がした。
 
続きはコチラ

日暮し

今日は、UTSへのコラムを仕上げなければならない。んだもんで、本当なら余計なことを書いている余力なんてないのだけど、まず、どうしてもコチラを書きたい。そうしなければコラムを書けない。そういうワガママな精神構造をもつ私である。
 
今朝、いつもの仕事場に向かうために山道を歩いていると、木立の影から幾つもの物体が「ジッ」という鳴き声を立てて飛び立つのに行き会った。この物体の正体はすぐに判明した。木の幹にたくさんの抜け殻が引っ付いていたからだ。そう、セミの抜け殻である。夜中に地中から出てきて羽化したセミが、私たちが近づいてきたのに驚いて、飛び立っていったのだろう。
今日、残念に思ったのはデジカメを持って出かけなかったことである。最近、当ブログに山でのことは書かなくなってしまったので、デジカメを持って出かけることを止めたのだった。セミの抜け殻を撮影できなかったのは残念だ。
このセミは、ヒグラシであった。今日も蒸し暑くて野外の仕事にはつらい一日だったが、ボチボチ陽が傾き始める午後3時頃、山に「カナカナカナ・・・」という涼しげな鳴き声が響き渡った。今朝、羽化していったヤツラに違いない。
 
自然の変化は、気がつきさえすれば、ダイナミックなものである。昨日までヒグラシは鳴いていなかった。いや、今朝まで鳴いていなかった。ヒグラシは朝夕鳴くので、昨日までに羽化していたなら、今朝もその鳴き声を聞いたはず。今朝は聞こえなかった。
今朝、たくさんのヒグラシが羽化した。一斉に羽化した。とても不思議な話だ。もちろん、今日以降も羽化してくるヤツはいるだろうけど、羽化が始まったのは「一斉に」という感じがとてもする。だからダイナミックに感じる。
セミは地中で7年間の幼虫時代を過ごし、成虫となってから2週間あまりでその一生を終える。今日は多くのヒグラシにとって、その一生のなかでの最大のイベントの日だったわけだが、なぜ今日だったのか? 彼らは別々の木の根に住み付いていたわけで、互いに相談して「今日、羽化しましょう」と取り決めたわけではないはずだ。なのになぜ、今日だったのか。
互いの個体が連絡を取り合ったわけではなくても、羽化するのに都合のよい今日という日の条件を、地中にいながら精密に感じ取る能力。これは一体、何なのか?
 
そのように遺伝子にプログラミングされているのだ。木から何も信号を得ているのだ。いろいろ答えはあろうし、これからもその答えは科学的に追及され、より精密なものになっていこう。だが、この答えがどれほど精密なものになろうとも、その答えをズバリ、答えることは出来ないであろう。子どもの素朴な質問の繰り返し、これはこうなんだよ、と答えると、では、これは何? とまた質問される、分かったつもりの大人にとっては、とても辛い子どもの質問。この質問にファイナル・アンサーを与えることはできまい。

教育現場での「排除」

dr.stoneflyの戯れ言さんの「授業参観と懇談会」…いまどきの親」。私は子供はいないのだが、それでもため息がでてしまう記事だ。
dr.stoneflyさんのお子さん(小1)の学校での実話のようだ。「問題児」を排除しようとする親たち。こういう親たちがいるであろうことは、各種の報道で知ってはいた。けれど改めて「ナマの体験」に接するとため息を漏らさざるを得ない。自分の頃とは何という違いだろう。
不思議に思う。今、小学校一年生の子どもを持つ親といえば、私などとさほど年代は変わらないはず。私が小学生だった頃など、「画鋲でさす」「たたく」「ける」「水をかける」、そんなことをする「問題児」なんて山ほどいた。恥ずかしながら私の「問題児」ぶりはそんなレベルではなかった。あ、いや、盗みをしたりとか、そんなことはしませんでしたよ。
けれど、そんな「問題児」が山ほどいたとて、ひとつも問題になどならなかった。「問題児」を排除しようとしている親たちが小学生だった頃も、問題にならなかった時代のはず。ではなぜそういうこともたちが親に成長して、自分たちの子どもを「問題児」を排除することによって守ろうとするのか? ここのところがよく理解できない。
時代の空気? 確かにそうなのかもしれないが、幼い頃に培われた感覚が、そんなに簡単に変わるものか? ちょっと理解できない。
ひょっとしたら、と思うのが、排除しようとしている親たちは、子どもだった自分は「問題児」ではなかったのでは、ということだ。私は「問題児」だったので気がつかなかったのかもしれないのだが、かつて「問題児」は山ほどいたといってもどちらかといえば少数で、おとなしい「優良児」のほうがどちらかといえば多かった、かな? ちょっと、自信がない。「優良児」たちは「問題児」を疎ましく思っていたが、周りの大人たちは「問題児」を「排除」しなかった。で、自分が大人になったときに「問題児」を排除するように動いた、と、こういう理屈。
けれど、この理屈にも弱点があって、私たちの親は彼らが子どもの時分に「問題児」「優良児」であったかを問わず、親になってから「排除」などしなかった。ということは、ひょっとしたら云々以外に親が変わってしまった要因が何かあるはずだ。
さらに不思議に思うのが、「画鋲が、はさみになり、ナイフになり、最近の子どもの殺人事件のようになる」という理論。子を持つ親が、本気でこんなことを思っているのか? 摩訶不思議。では、かつて山のようにいた問題児が、今は殺人犯? すべてと言うのは極端であるにせよ、そうなる傾向が高い?
おそらくは「問題児」の方が、将来的にはほとんど問題はない。「画鋲」「たたく」「ける」「水かけ」程度のことなんて、子どもならごくごく普通。中には真性のワルもいるだろうが。
むしろ危ないのは「排除」しようとする親たちの子ども。私はそう思う。こういう親は恐らく、わが子をも「排除」している。わが子を自分の所有物のように看做し、自分の思いどうりに育てようとしているのではないか? もしそうなら、そうやって育てられた子どもの方が危ない。「よい子」だったはずが、突然キレて事件を引き起こす。取り返すのつかない事件を。
親たちは、子どもたちが引き起こす事件報道のどこを見ているのだろう? 事件を起こすのはたいてい「よい子」ではないか。
そして一番の問題は子供たちに「排除」を教え込むこと。このような教育を受けて「排除」することを当然だと思い込む子どもたちがこれからたくさん世の中に出てくると思うと...、日本に少子化が進んでいることに感謝したくなってくる。