やっぱりジダンのこと

先日もジダンの最終プレーについて触れたけど、心配した通り、やっぱり大騒ぎになった。あっちこっちのブログでもジダンの評価を巡っていろいろと意見が飛び交っている様子。
この話は論じるのには手頃感がある。スポーツの中での話しだし、人の生き死にが関わっているわけでもないし。とはいうものの、この問題が抱えている問題は複雑で、それこそ一筋縄で解ける問題ではない。
それにしても、こういう問題が起こるにつけ思うことは「みな、繋がっているんだ and 繋がりたいんだ」ということ。先の記事で私は「個人のことだから、ほっとけ」と主張したんだけど、放っておけないみたい。これにはジダンという有名人だから、という意見もあるようだけど、それは違うと思う。ジダンだからその報じられたという面はあるにせよ、それは報じられるきっかけであったに過ぎない。何かきっかけがあればそれが有名人であろうがなかろうが報じられ、議論を巻き起こす。これは「繋がりたい」という欲求の現われではなかろうか。いささか屈折した現れ方ではあるけれど。
この問題のなかで、評価できると感じたのはジダンの釈明。これは「一筋縄ではいかない」ということをありのまま示すものだったと思う。ジダンは自らの行為を誤ったものだと認め謝罪しつつも、後悔していないと発言した。
ジダンの行為が誤ったものであるという点から出発しても、マテラッティの言葉が誤ったものであるという点から出発しても、どちらか片方から出発したのでは事の本質を見誤る。ジダンマテラッティも何を誤ったのか、そこを見極めなければならない。ふたりの誤りに共通するもの。そこを見い出さなければ、問題の本質を突いたことにはならないのではないか。
では、その共通点、本質とは何だったのか? 私が思うに、それは「連鎖」させたことだ。
マテラッティが挑発したのは何らかの理由があったのか? それはわからないが、まあ、あったとしよう。あのようなゲームには挑発を誘発する理由などいくらも転がっていよう。何らかの理由からマテラッティが挑発し、連鎖の始まった。その連鎖にジダンが連鎖を重ねた。そこへまた周囲の者が連鎖を重ねていく...。報道ではつまらない場外乱闘も起きていると聞く。
どちらも誤りを犯したなら、どちらもルールに従って処罰されればよいのだ。この問題は「死刑」の問題などとは違ってルールそのものの妥当性が問われているわけではないのだから、連鎖の詳細を明確にし、ルールに従って処罰を行い、連鎖を断ち切る。これで一件落着ではないのか?
ジダンは釈明で「一筋縄ではいかない」彼自身の理由を示したが、それでもそのあとはルールには服するとした。一方のマテラッティは、いまだ自分は「一筋縄だ」と主張している模様だ。これはあまり潔い態度だとは私は思わない。が、その私の感触、そして私以外の多くの人の感触をルールに反映させてはならない。そんなことをすればルールがルールでなくなる。
スポーツの美点は、それが闘争の一形態でありながら、完全にルールの支配の下で行われるというところにある。ルールの支配があるからこそ、闘争の美点が映える。プレーをする者もプレーを鑑賞する者も、安心して闘争の美点を楽しめる。けれど、例えば一時期のイラク北朝鮮のように試合の結果が選手の生命の安全を脅かすという事態になると、スポーツの美点が損なわれてしまいかねない。ここにはスポーツのルールを承認しない「力」が反映されてしまうから。これは醜い。
今回、ジダンマテラッティは、確かにルールの一点を破ったのだが、より大きなルールには従う。だからスポーツという大きなルールの器そのものは破れていない。で、あるから一筋縄でいかないといいながら、問題はさして深刻ではないのだ。問題が深刻になるのは、一筋縄ではいかない、そのいかなさ具合がルールの器から溢れてしまうときだ。こうなると事態は「血を見るまで」収拾がつかなくなる。
けれどスポーツのように大きなルールの器が破綻しないのであるならば、器の中での小さなルールの破れはむしろ歓迎すべきことなのかもしれない。小さな破綻とその破綻を修正する行為は、より大きなルールの重要性を知らしめ、高める効果をもつ。いや、そのようにルールは運営されなければならない。ただ連鎖を断ち切るだけではない。悪の連鎖を断ち切り、善の連鎖に変換させなければならない(余談だが、悪⇒善へ連鎖の変換が「水に流す」の正しい意味だ)。
悪の連鎖は「否定」から引き起こされる。相手の「否定」である。悪の連鎖はなるべく早い時点だ断ち切るべきだ。マテラッティジダンも、悪の連鎖を引き継ぐべきではなかった。そんなことは明らかだけれど、けれど、彼らが悪の連鎖を引き継いだといって非難する人々は自問してもらいたい。あなたはいかなる「否定」も受け入れることができるのか? と。
できると答える人は、悟りを開いたような人か、もしくはウソつきかのどちらかだ。大多数の人がいかなる「否定」も受け入れることができるとはできまい。ここでいう「否定を受け入れる」とは「言葉に暴力で応えない」という意味ではない。そんなものは「否定を受け入れる」ではない。単なるヤセ我慢だ。ヤセ我慢はよくないし、みっともない。ヤセ我慢をするくらいなら暴力で応える方がまだマシだし、ヤセ我慢を強要することもこれまた暴力である。
ジダンが引き起こした今回の問題を「暴力はダメ」という安易な結論で幕を引いてはならない。そんな結論は今まで幾度下されたか知れないけれど、その度にその結論は現実に否定されている。無意味な結論を下すことそのものに意味がない。
人間は暴力というエラーをどうしても引き起こしてしまう生き物だ。だがこのエラーを無理に矯正しようとすると人間そのものがエラーになってしまうし、人間が営む社会もエラーとなる。繰り返すがそれでは「矯正」も「暴力」の一変種に過ぎない。暴力を含め、人間の引き起こすエラーをある程度まで「受容」すること。「受容」するとは悪の連鎖を断ち切り「水に流し」善の連鎖に変換すること。この「ある程度」がどの程度のなのかが難しいところだが、その程度が高いほどその社会は健全だといえる。
ジダンの最終プレーとその釈明は、この「受容」の好例ではないかと思う。ジダンは誤りを犯し、その誤りを謝罪した。ここでいうジダンの誤りは彼の暴力行為そのものではなく、マテラッティからの連鎖を絶てなかったこと。断てなかった理由とはつまりジダンの心の弱さであり、彼はそれを示唆(全てを告白したわけではないし、またその必要もないが)し、より大きなルールに従う態度を示した。
彼は自分の弱さを盾に自分の行為の正当性を主張するようなことはしなかった。だが、守るべきもののためには闘うという態度も示した。つまり「正当性を主張しない」ことと「守るべきものの為に闘う」の矛盾を受け入れ、その処遇を大きなルールに委ねたのである。彼のこの態度のより、大きなルール(明示することが難しい、ルールというよりはスポーツマンシップといったもの)の存在が際立ったのである。ジダンという英雄と称される選手といえど大きなルールの前ではひとりのスポーツマンにすぎない。ジダンが特に子供たちに向かって謝罪した真意はここにあったのだと思う。

付け足し

>ヤセ我慢をするくらいなら暴力で応える方がまだマシだし、
は反発を招くかな? 先に言い訳をしておくと、ジダンが振るった程度の暴力なら、ということ。もし仮にピッチ外で武器を持って暴力を振るった、なんてことになれば、これは言語道断。この場合、ジダンの暴力は「スポーツ」という器の中から大きく逸脱していることになる。あくまで「スポーツ」の枠内で解決できる暴力という意味。