テポ丼と牛丼

いよいよ米国産牛肉の輸入が再開される。吉野家の牛丼は早くて9月頃からの再開になるとのこと。待ちわびる人も多かろう(笑)。
 
本日のエントリーのタイトルは「テポ丼と牛丼」であるが、どちらもケシカランというお話ではない。そういうお話は博学なブロガーがあちこちで記事を書いていらっしゃるので、そちらをご覧になってください。私だってケシカランと思っていることには間違いないのだけど、もっとヒネクレタ視点からこの2つの問題を眺めてみたい。
 
といっても何も難しい話ではない。
TVで一般庶民らしき方の声が報道されていた。「米国産牛肉を買いますか?」という質問に、「怖いから買わない」と答える人。もちろん「美味いから買う」という人もいるのだけど、ここで問題にしたいのは「怖い」という感覚。テポ丼だって「怖い」。同じではないか(笑)。
 
この2つが同じなんて云ったら、博学な方からはお叱りを頂戴するに違いないと思う。実は本日のエントリーはそれが目的だったりする。かなりMがかったエントリー。
 
テポ丼は知れば知るほど怖くなくなり、牛丼は知れば知るほど怖い。模範解答はこんな感じだろうか? けれど私はここに敢えて異を唱えたい。
 
その道の専門家ならいざ知らず、情報も分析力もない庶民に判断を下せるほど「知る」なんてことがそもそも可能なのか? 私たち庶民にできることは「信用する」ことだけでしかないのではないか?
「もっともっと勉強しなさい」とこれまたお叱りを受けそうだが、世の中勉強嫌いの人のほうが遥かに多い。一日汗水たらして仕事をしたら冷えたビールをキューとやって...、何が悪い? この上まだ勉強しなきゃならんのか? バカいえ。勉強は専門家に任せてある。ちゃんと税金として料金も払ってある。これ以上勉強しろというのなら、税金返せ。
 
「怖い」となるのは信用できないことに起因する。信用あるものが「大丈夫」といえば、大抵の人は安心する。けれど、この2つのケースのいずれも安心できない。だから怖い。私たちが税金を払って養っている専門家たちが安心させてくれないのである。
 
牛丼のケースは、「国民が判断してください」だって。安心は自分で用意してください。そういうことでしょう。
テポ丼は、安心どころか不安を煽る。自衛隊は当てになりません。アメリカ軍も当てにありません。不安です、とくる。ところが不思議なことだが、日本国政府は当てになりません、とは言わない。ここが一番肝心なところなんだけど。
 
私たちは「安心を買う」ために税金を払っている。現在日本の国が用意する安心は、犯罪者は死刑にします、くらいのもんだ。医療もダメ、年金もダメ。もうそんな国、要らないかもしれない。
 
お上もさすがにバカではないとみえて、自分たちがそろそろ「要らない」と云われるかもしれないことをなんとなく察知している。で、繰り出した必殺技が「愛国心」。ホント、これにかかれば殺されてしまう。
やっぱりオツムの出来の良い人たちは考えることがキコリなどとは一味も二味も違う。「要らない」と思われたら「必殺技」。
ん? それってストーカーと同じではないのか?