ワーキングプアは必然か

ここのところ、ワーキングプアについて考えていた。何か書こうと思っていた。
7月23日にNHKスペシャルで『ワーキング・プア〜働いても働いても豊かになれない〜』と題する番組が放映されるのを見ていた。もう少し正確に書くと、妻が放映されるのを見ていたのを見ていた。つまり私はあまり放映内容については見ていなかった。見るまでもないと思ったのだ。こんなことになるのは当たり前だと思って興味を失い、テレビを横目で見ながらPCの前に座っていた。
その後、案の定というか、ブログ界でもいろいろと発言があった。ワーキングプアはケシカラン、という内容であった。私が普段巡回しているブログではワーキングプア拡大を当然視しているところは無かった。それはそうだろう。
私だってワーキングプアはケシカランと思っている。だが自分がワーキングプアについて何かを書くに当たって、ただケシカランと書くだけでは足らないと思っていた。番組を「見るまでもない」と思った理由について触れなければと思っていた。
そんな思いを抱いている中で、これはと思う2つの記事に出会った。ひとつは早雲さん 「日本はなぜ負債大国になったか」。もうひとつがキリスト者として今を生きる「私的な」出来事

ワーキングプアの骨格

「日本はなぜ負債大国になったか」の内容は、もちろんタイトルの通りのものだ。だがこの記事を読んでみると、日本が負債大国になったこととワーキングプアの拡大とが裏表の現象であることがわかる。そしてアメリカがまた日本以上の負債&ワーキングプア大国であることもよくわかる。そのキモは税制にあるというのである。
乱暴にまとめてみると、日本もアメリカも「無価値の富」に対する課税を怠っているというのである。金持ち優遇税制がそれであるが、そればかりではない。「無価値の富」に対する援助すら行っていると上の記事は指摘している。その援助ゆえに日本は負債大国になっているという。
「この「無価値」の富は、主にFinance(金融)、Insurance(保険)、Real Estate(不動産)産業とその不労所得者の収入であり、それらの頭文字を取って一般にFIRE分野と呼ばれている。」まさしく、資本家の領分である。そしてその資本家への援助はどこから行われているかというと労働者階級の持分から行われるという。
不労所得者の収入は、貸し手と地主が事前に規定する固定利用料(家賃と利子など)から成る。企業の成功如何で増減する収益とは対照的に、これらの固定料金は、経済の成長や支払い能力とは無関係に、いやおうなしに要求されるものである。ある人の収入が他の人の支出になる「ゼロサム・ゲーム」がそうであるように、不労所得者が要求する料金は、債務者の基本資産を削るところまで利益を食いつぶしてくる。」
 
例えばここに月収10万円の労働者がいるとしようか。彼の支出は当然月10万円にならざるを得ないのだが、その支出内容を検討してみるとどのようになるか。ごくごく単純に考えてみる。
生命維持のために必要な食費は家族構成にもよるが多くても、3万円程度であろう。この労働者が都市生活者であれば、家賃は3万円ではまず、済まない。つまり「生命維持のコスト<不労所得者が要求する固定料金」なのである。そこへさらに税金・年金等が加わり、労働者の可処分所得はますます減少し、結果として子どもの教育や病気などの非常事態への備えが薄くなってしまい、容易なきっかけでホームレスなどのより貧困な層へ転落してしまうことになる。
このような事態にセーフティーネットを施す責務のある国も、「不労所得者への固定料金」への支払いに追われる。国債等の負債への返済と利払いがそうだ。国の負債が増大した理由も富裕層への優遇税制で税収が減少したことが理由であるが、その富裕層への支払いの方は固定のままである。足りなくなった分は貧困層への増税とサービス削減によって賄われる。
企業も同様である。BLOG版「ヘンリー・オーツの独り言」「数値で見る「格差社会」の現状と展望」によくできたモデルが掲載されているが、これは企業がいかに人件費(=労働者への富の配分)を減らしてきたかがよくわかる。もっとも企業にも言い分はあって、それは一時期確かにそうしなければ企業は生き残って行けなかったのである。銀行等の金融引き締めもあったし、現在ではファンド等への企業防衛や株式市場での評価への対応などで、企業は否応無く人件費を削って利益を計上しなければならなくなっている。そして、そのどれもこれもが富裕層=不労所得者の影響力が肥大したことに原因がある。
 
「日本はなぜ負債大国になったか」にはこのように記されている。
階級闘争の本質は経済力を政治権力に転換することである。ほぼ決まって勝者となる富裕階級にとって、階級闘争の目的は自分達の所得や富に対する税金を削減することにある。その結果、税制は富裕者への累進制を弱めるよう改正され、賃金労働者や消費者の税負担が高くなる。日本の場合も、今日の財政赤字と国家債務は、最も裕福な階級に対する課税を怠ったことが原因となっている。」
「しかし、現在の財政政策の悲劇は、生産的な産業投資よりも、非生産的で寄生的な富の方が簡単に税金逃れができる点にある。不正な富の方が税金を削減しやすいのは、それがより多くの経済価値をもたらすからではなく、ただ単に最も収益性が高く、強い影響力を持つためである。過剰の富や、不労所得者の所得へ課税する代わりに、必需品や生産的な直接投資、労働者階級への課税を増加すれば、産業の発展や繁栄は抑制されてしまう。」

まさしく「非生産的で寄生的な富」が「ただ単に最も収益性が高く、強い影響力を持つため」に課税を免れ、「産業の発展や繁栄は抑制されてしまう」結果になってしまっている。蓄積された富が生み出す無価値な富が重視され、社会の基盤を支える労働の価値が不当に蔑ろにされる。その象徴がワーキングプアだ。どうも私たち持たざる者は知らないうちに「階級闘争」に巻き込まれ、敗北を余儀なくされているようである。

ワーキングプアの原動力

ワーキングプアを作り出す骨格を示した記事が「日本はなぜ負債大国になったか」であるとするならば、ワーキングプアを作り出すことになった原動力を示す記事が「私的な」出来事である。この記事もタイトル通り著者であるstarstory60さんの私的な思いを記したもので、ワーキングプアについて焦点を絞ったものではない。しかし、starstory60さんが日常の中で感じる一人一人の何気ない思いこそが、ワーキングプアを作り出す原動力となっていることが見て取れる。
そのツボがこれ。
「みんな学校を愛してるんじゃないんだよ。自分のことしか考えてないの。」
starstory60さんは学校に勤められているようなのでここは学校となったが、これを会社としても、大きく社会としても同じことである。みんな自分のことしか考えない。だから抜け駆けをするのだ。自分だけ好い思いをしようとして、権力者に擦り寄る。いや、「自分だけ」とは必ずしも考えていないかもしれない。しかし、同じ境遇の者たちと「共闘して勝ち取る」なんてシンドイことよりも権力者に擦り寄って目をかけてもらって、楽して好い思いをしたい...、その結果、他の者が好い思いを出来ないことになるかもしれないけど、そんなことは関係ない...、こういった一人一人の心情が浮き彫りにされている。
権力者に擦り寄る心情とは、とどのつまり、好い思い(ここには富も含まれる)は権力者のものだということを認めているのである。これでは富裕層(この者たちは、自分たちの富は努力し勝ち取った結果だと主張する)にしてやられるのも当然だ。権力者たちに認められようという努力も努力であろうが、その努力はワーキングプアを作り出す骨格を強化するものにしかならず、持たざる労働者は自らの足元を自らで「努力して」崩していくことにしかならない。
「 世の中をよくする鉄則…意見は直接相手に言え!権力者に持っていくな!」
権力者にご注進する努力は、権力者たちを利することにしかならない。ここを突き崩すには、好い思いや富が、そもそも権力者や富裕層の所属ではないと認識しなければならない。
「世の中をよくする鉄則…福利厚生は権力者の恩恵としてではなく、「私たちの権利」として勝ち取れ!ぬけがけをするな! 」
正論である。

なぜウヨクなのか?

同じ「私的な」出来事「なぜウヨクなの?」という問いかけがある。starstory60さんは「キリスト者」と名乗りを上げているのだから、この問いは至極当然のものであろう。私はウヨクではないのだけど、ここに私なりの回答を示したいと思う。ここでキーになるのは「私たち」とは何か? である。ウヨクはここに答えを出す。
Dr.マッコイの非論理的な世界から「身近にもあった「命がけで守る」行為」。この記事のなかでDr.マッコイ*1は次のように書いておられる。
「今の日本に必要なのは、あらゆる共同体の再生ではないかと思います。小さいところでは家族という共同体を、大きなところでは日本という共同体を、なんとか再生して行きたいと思います。」
ここでいう共同体こそが「私たち」なのである。彼らは「私たち」とする基準を「伝統」*2置く事で明確にするのである。そして共同体に重要性を明確にした上で、
「共同体から切り離された個人がバラバラに個人主義で存在すると考えるなら、こうした責任感も郷土愛も生まれないでしょう。社会契約説みたいな味も素っ気もないものになってしまいます」
という思考になっていく。

出発点は同じ

このように見ていくと、「キリスト者」たるstarstory60さんも、「日本の伝統に価値を見い出す」Dr.マッコイも、ワーキングプアを作り出す骨格と原動力を否定するという出発点においては、同じところに立っているということがわかる。そしてまた、目指す終着点についても大きな違いは無いのかもしれない。異なるのは道中の過程でしかない。
「私的な」出来事に寄せられたるるどさんのコメントに以下のようなものがあった。
「富士山の頂上への辿り方が複数あるように、右翼や左翼や色々な思想の違いを超える時、実は同じ方向を見ていたり、同じような事を大切にしていることも少なくないかもしれませんね。」
まったくその通りだと思う。
参考:喜八ログ「憂国・売国」

あとがき

今回はいろいろな方の記事を勝手に引用させてもらったばかりでなく、手前勝手に解釈して私の記事の素材とさせていただきました。引用元の方々には異なる意見があることと思います。ご批判をお待ちしてます。

*1:Dr.マッコイはご自分のことはウヨクではなく「保守」だとされている。彼によれば保守とウヨクはまったく別物なのだそうである

*2:私は、いわゆるウヨクが考えている「伝統」の内容には異議がある。これは「「日本の伝統的宗教観、天皇教、靖国神社」についての愚考」においてその一端を示した。だがに内容はどうであれ、「伝統」によって共同体を規定していくこと自体には反対ではない。