エンエコ社会〜過疎地からの視点

3月31日のエントリの続き。
実はこのエントリを、はてな人力検索で質問してみた(こちら)。これは『晴耕雨読』の早雲さんから「真っ当な論」との評価を頂いたたのがきっかけで、それをもう少し確かめてみたいと考えたから。この点、はてなはまことに便利だ。
今日のエントリは、はてなでの質問へ回答を寄せてくれた方への、私のほうからの回答も兼ねている。

林業の現状から

私は現在、林業で生計を立てている。この業種についてまだ足掛け4年といったところだが、よくこの業界の中でよく耳にするのは「昔は景気が良かった」という話。現在も30年前も、材木価格は変わらない。もちろん人件費は30年前より高騰しているので、業界としては高コスト体質になる。従って林業は、年を経るにつれ、産業としては衰退して行っている。
そんなのは当たり前ではないか、という声が聞こえてきそうだ。技術革新が日進月歩の勢いで進む世の中で、30年前と同じものが同じ価格で売れるということは、これはむしろ産業として条件が良い方で、業界の努力が足りないのが業界不況の最大の原因だ、と。
この思考は間違っていないと思う。けれど、この思考は、物事をある一面からしか捉えていないように私は感じる。それは「人間の都合」という視点であり、日本では「エン」という通貨単位で価値を測るという思考に足元を取られてしまった思考だと思うわけだ。
ひとつ具体例を挙げてみる。林業では、木を育成するのに間伐という作業を行う。間伐とは木を間引くことなのだが、なぜこういった作業を行うかというと、それは木の経済的価値を高めるために行うのである。
樹齢が100年の林があるとして、1haあたり100本の木がある林と、1000本の木がある林では100本の方が経済的価値が高い。その経済的価値(エン換算)の差が間伐を行うインセンティブとなる。
ところが、これを炭素の蓄積量という観点で見ると、どちらの林もじつはほぼ同じである。ここにエコという尺度を当てはめると、100本の林も1000本の林もエコでは同額となる。
さて、今ここに樹齢50年で1haあたり1000本の林があったとする。このまま放置するとエン換算では不利なので900本を切り捨てて100本の林にするわけだが、問題は切り捨てられた900本だ。この900本はかつては価値があった。林から回収するというコスト(エン換算)をかけても利益があった。しかし、現下の木材価格では、エン換算ではコストに合わなくなってしまっている。だから、放置され、腐り、せっかく木が固定してくれた炭素が再び二酸化炭素となり、大気中に放出されていく。
900本の間伐材をエネルギー利益率という尺度で見ると、これは明らかに1以上のものになる。だが、エン換算では利益は出ないので、このエネルギーは利用されることはない。せっかくのエネルギーが利用されるされないが、その時々に人間の都合で付けた尺度で決まってしまう。果たしてこれでよいものか? 素朴に疑問に思う。
エコという単位の発想は、この疑問からスタートしている。あるモノが保有しているエネルギー量は、人間のつける価格とは無関係に、一定である。では、このエネルギー量を、エンという通貨単位とは別枠で考えて取引できるようにしたらどうなるか? ここまで考えるとエンとエコを交換取引しようというところまでは、ほんのわずかな距離でしかない。

二酸化炭素排出権取引との違い

この発想もここまでであれば、二酸化炭素排出権取引と大差はない。けれども私にはもうひとつ素朴な疑問があって、それは二酸化炭素排出権の取引をなぜ国や企業が独占するのか? 個人が参加する資格はないのか? ないとすればその根拠は? 結局、自然からの恵みはみなに平等に分配すべきである、との麗しい(?)理念から、そのまんま、各個人に資源消費権を平等分配、としたわけである。
ここまで考えて、さて、こんな世の中が生まれたとしたら、どんな風になるのか? 想像を膨らませていったというわけですね。その想像の結果が3月31日のエントリという次第なのです。