モノに2つの価格

最近よく覗かせてもらっている「華氏451度」さんに「与太話「こんな国家」」というエントリがあった。当人が書かれている通り9割は与太話なのだが、そんな与太話が実に面白かった。またエントリ冒頭には、与太話を書いた動機も記されている。私も華氏さんに習って、与太話を書いてみようかな、と思った次第。

まずは妄想から

もし私が、とてつもない大金持ちだったら、と考えてみる。使おうにも使いきれないほどの財産がある。これをどう使おうかと考えているうち、ふとあることを思いつき、それを実行に移すしよう。その思いつきとは「世界中の石油を買い漁り、燃やしてしまう」というもの。果たしてこの行為は許されるか。
現在、環境問題がいろいろと取りざたされている。化石燃料の消費による二酸化炭素の大気中への排出が地球温暖化をもたらす、という話になっている。この話が本当なのかどうか、私はよく知らないが、いちおうこのことが世の中の基本認識になりつつある。そしてこの認識からすると、私の行為はどう位置づけられるだろうか? 当然非難されるだろう。けれど、では、何処が悪いのか? 私は自分の財産を遣っただけのことだ。この財産の遣い方には道徳的に問題はあるかもしれないが、世の中のルールとして外れたことをしているわけではない。
現在の世の中は経済学信仰が盛んで、その教義のひとつに「人は合理的に行動する」というのがあるが、こんな教義はデタラメだ。その証拠を示せという方がおられるならば、私に遣いきれないほどの財産を与えてくれればよい。すぐに証明して見せて差し上げる。ただし、遣いきれるほどの財産でしかない場合、私は合理的に行動する。
話は横に逸れたが、こんな妄想が私の与太話の出発点だ。けれど、あながち妄想といえないところもある。「私がとてつもない大金持ちだったら」というのは100%妄想だが、日本という恵まれた国に暮らす私は、日々、化石燃料の無駄遣いをしているのではないか。もう二度と戻ってこない過去の地球からの贈り物・石油を、ただお金を持っているからといって、自由に遣ってもよいものか? 

「エン」と「エコ」

妄想から与太話に移る。
私の与太話のミソは、お金と石油などの資源を使う権利を切り離してしまえ、というところにある。その結果が「モノに2つの価格」が付くことになる。消費者がモノを購入しようとした場合には、2種類の「通貨」を支払わなければならない。その「通貨」のひとつは、言うまでもなく現在流通している通貨。ルールもそのまま。日本では「円」と呼ばれている単位。もうひとつは、「円」との語呂合わせと「環境」という意味を込めて「エコ」と仮に呼ぶ。この「エコ」とは、そのモノなりサービスが、いくら環境を消費したかを表す単位である。この「エン」と「エコ」が流通し、物品売買等の決済に必要となる。
「エコ」の考え方のモデルは、現在行われつつある「二酸化炭素搬出権取引」なのは誰の目にも明らかだろう。その取引の資格を個人にまで拡大し、若干のルールを付け加える。
「エコ」についてのルール

  1. 「エコ」は「エン」と違って稼ぐものではない。誰も無条件に同額与えられる。
  2. 「エコ」を貯蓄することはできるが、利息などがつくことはない。
  3. モノ・サービスを消費者に提供する際に、儲け・付加価値をつけてはならない。
  4. 「エコ」にカウントするのは機械文明によってもたらされる資源に限定とする。自然物(農産物・人の労働等)はカウントしない。

ばら色の未来予想

「エン」と「エコ」のルールで社会が動くようになると、どのようなことになるのか? 与太話らしく、ノーテンキにばら色未来図を描いてみたい。
エコロジー社会が進展
ひとりひとりに付与される「エコ」額は、地球環境が許容できる「エコ」総額を総人口で均等割りしたものとなる。初めから総額が決まっているので、環境問題は解決に向かう。
さらに「エコ」という単位が明示化され、それは「稼ぐ」ことができないものなので人は「エコ」を節約しようとのインセンティブが働くようになる。このことにより社会そのものがエコロジーなものに変化していく。
富の再配分が効率よく行われる
「エン」と「エコ」のルールによると、上記の妄想で描いたような行為は不可能となる。お金持ちが幾らたくさん「エン」を持っていたとしても、それだけではモノを購入できない。モノを購入するには「エコ」も必要で、その配布額はみな平等であるからだ。では、お金持ちがたくさんの「エコ」を消費したければどうすればよいのか? 「エコ」を必要としない人から購入すればよい。ここで「エン」と「エコ」の交換市場が成立する。ただし、この市場は、ごく古典的に「需要と供給」のバランスから交換比率の決定がなされ、先物取引だのという複雑な取引は一切なし。この制度により、収入の少ない社会的弱者は必要としない「エコ」を「エン」と交換することで生計を営むことができるようになる。老齢年金などは必要なくなる。子どもの教育費用も子ども個人の「エコ」から賄われるので、教育機会の不均等もない。
極小政府の実現
現在は行政が担っている富の再配分は、その役割りが必要なくなるので、政府の規模は大幅縮小される。
IT化社会の更なる進展
「エン」「エコ」社会は、一見複雑な仕組みの社会となる。モノに2つの値段がついていて、会計が複雑。ここにはIT化が欠かせない。IT化により、複雑な会計計算もごく簡単に済ますことができる。
上で指摘したとおり行政は簡素なものにすることができるので、「エン」「エコ」社会は計算は複雑でも仕組みは簡素な社会になる。
地産地消」が進展し、小さな経済圏が発展
「エン」「エコ」社会では、遠方で生産されたモノを輸入するのは、多大な「エコ」を消費することになるので不利になる。従って消費圏の近くで生産されたモノが求められる傾向が強くなる。
「ゴミ問題」が解決
廃棄されることになるモノは、「エン」での価値は0になっても「エコ」価格は残存する。ゴミは無価値でなくなり、残存する「エコ」が取引され、リサイクル・リユースが促進される。

「エン」=自由、「エコ」=平等

無責任な与太話は、気楽でよい。お気楽ついでに、与太話の上にタワゴトを重ねる。
「エン」「エコ」社会において、「エン」は自由な経済活動を「エコ」は平等な資源消費を表す尺度と解釈できる。「エン」と「エコ」が地球環境という枠の中で、市場を通じて取引され、均衡を保つ。そのことにより、「自由」と「平等」も市場によって取引できるものになり、リベラルだのネオリベラルだのという神学論争も霧消していく。
 
以上で、与太話は終わり。本気度は100%。