光市 母子殺人事件から考える

14日のニュースになるが、

山口の母子殺害、弁護士欠席で口頭弁論開けず…最高裁

 山口県光市の本村洋さん(29)宅で1999年、妻(当時23歳)と長女(同11か月)が殺害された事件で殺人罪などに問われ、1、2審で無期懲役の判決を受けた同市内の元会社員(24)(犯行時18歳)について、最高裁第3小法廷は14日、死刑を求める検察側の上告を受けた口頭弁論を開こうとした。だが弁護士が2人とも出廷せず、弁論を開くことができなかった。

 改めて4月18日に弁論期日を指定したが、死刑求刑の事件で弁護士の出廷拒否は異例。訴訟遅延行為に当たる可能性もあり、浜田邦夫裁判長は法廷で「極めて遺憾」と、弁護士を強く非難する見解を読み上げた。

 この事件では、書面審理中心の最高裁が、弁論を開くことを昨年12月に決めたことで、死刑を相当とする判決になる可能性が出ている。死刑廃止運動を進める安田好弘、足立修一両弁護士が、今月6日に辞任した弁護士に代わって就任。「日本弁護士連合会が開催する裁判員制度の模擬裁判のリハーサルで、丸一日拘束される」との理由で、この日の法廷を欠席した。

 これに対し、検察官は法廷で、「審理を空転させ、判決を遅らせる意図なのは明白」と述べ、弁論を開いて結審するよう要請。浜田裁判長は「正当な理由のない不出頭」と述べたが、結審は見送った。

 安田弁護士らは今月7日付で、弁論を3か月延期するよう求める申請書も最高裁に提出しているが、翌日却下されていた。安田弁護士はこの日、「被告の言い分に最近変化があり、接見や記録の検討を重ねる時間が必要。裁判を長引かせる意図はない」とする声明を出した。
(2006年3月14日21時4分 読売新聞)

というのがあった。このふたりの弁護士についてはいろいろと非難が出ているようだが、私もそこへ加わろうというのではないし、また弁護士の弁護をしようというのでもない。死刑という刑罰に賛成が反対かの意見を述べようというのでもない。
 
このニュースの中で、事件が起きたのはもう7年も前のことになると聞いて、ちょっと驚いた。私がこの事件から受けた印象は強くて、とても7年も時間が経過したとは思えなかったから。この事件のどこに強い印象を受けたのか? それは遺族であるご主人の記者会見であった。今日はそれについて書きたい。
その記者会見で彼は、涙ながらに「死刑にしてください」と訴えていた。“そうならなけば私が犯人を殺す”というような発言もしていたと記憶している。私はその記者会見がTVで放送されるのを見て、彼の身の上に降りかかった悲劇に憤り、彼の心情と決意に同情と共感を覚えつつも、不快感を覚えたのをのを記憶している。不快だったのはTVで放送された彼の“生”の感情が余りに強烈であったからだろう。
この事件と記者会見を機に、いろいろと議論が(特にネット上で)なされたようである。死刑制度の賛否のみならず、“仇討ちの制度を復活させよ”というような意見も多かったと思う。そのような意見を誘発するのも無理はないと思われるほどのインパクトが、彼の記者会見にはあったように思う。

遺族の“生”の感情をありのままに伝えてしまったTV

TVはリアルなメディアである。私もよくそれを楽しむ。だが時として、そのリアルさが不愉快に感じられるときがある。件の記者会見もそう。そのリアルさが不快だった。
報道機関はよく「知る権利」という言葉を振りかざす。それは多くの場合、必要なことだろう。ことに報道の対象が「公」である場合には「知る権利」は重要。だが、だからといって何でもかんでも伝えてしまってよいというわけではないと思う。そういうメディアの“節操のなさ”は多くの人が感じていると思う。
では、このケースはどうか? 私はこの会見にも“節操のなさ”があると思った。センセーショナルな事件と会見であるから、多くの人が関心を持つであろうという計算が働いているように感じた。
この会見は誰が希望して開かれることになったのかは知らない。遺族がTVで喋っていたのだから、少なくとも彼の意思に反して行われたものではないだろう。おそらくは彼が望んだのではないかと思う。そうは思っても、やはり私は不快だった。彼の感情が余りにもリアルに伝わってきたから。こんなのに付きあわせれるのはかなわないと、正直思った。
こんな風に書くと、薄情な奴だと思われるかもしれない。確かにそうなのかもしれない。けれど、私はあのような“非常”なものは、何の考えもなく垂れ流してよいものではない、と考える。ここには報道する側の“節操”が必要であったと思う。彼の会見での発言には、「公」にとっては見過ごしてはならない内容が含まれていたから。
昨日のニュース報道で以上のようなことを思い出し、ひょっとしたらまたあの場面を見せられる羽目になるのかと一瞬身構えたが、幸いにしてそれはなかった。

「公の秩序」を名目に「個の心情」を抑圧する暴力装置としての国家

私は彼の心情と決意を正当なものだと思ったし、支持したいとも思った。けれど、残念ながら全面的に支持するというわけには行かない。あくまで「個」の立場としてなら、という条件が付く。「公」の立場に立てば、これは支持できない。(実は私はこのような「公」のあり方には疑問を持っているが、ここではとりあえず一般的な「公」の立場ということで)。
その理由は、暴力のコントロールというところにある。彼は、場合によっては暴力を行使する、と明言した。繰り返すが、彼の「個」としての立場からすると、やむを得ないことだろう。彼の身内が暴力の被害を被り、彼がそれを暴力で返す。とてもわかりやすいけれど、「公」としてはそれを認められない。それを認めないことに「公」つまり国家というものが成立する前提があるわけだし、上で「会見の報道の仕方に節操が必要だった」とした理由もここらにある。
現代の国家は法治国家である、なんていうけれども、その本質が暴力装置であることに変わりはない。ただ暴力を行使するルールを定めただけで。それもルールを定めたことにより暴力を国家が独占することになってしまった。法を犯した犯罪者を暴力を持って処罰するのは国の当然の役目なんだけれども、反面、被害者からも復讐の権利を取り上げてしまうということでもある。そしてそのことは「個の心情」を抑圧することにつながる。

国家は個を抑圧するだけではいけない

最近、刑事事件や司法に関しては「個の抑圧」をなるべく解放しようとする方向になりつつあるように思う。犯罪被害者救済や司法についての情報公開なんかがそう。また今日の新聞記事にこのようなものがあった。

「一生酒飲まない」条件・栃木のひき逃げ、損賠訴訟で和解
 栃木県益子町で2003年3月、女子中学生2人がひき逃げされ死亡した事故で、2人の両親が加害者の谷口紀幸受刑者(41)=業務上過失致死罪などで懲役7年=に計約4億1500万円の損害賠償を求めた訴訟は16日までに、宇都宮地裁(岩田真裁判長)で和解が成立した。

 和解条件には、受刑者が(1)一生酒を飲まない(2)出所後15年間、盆や彼岸など年3回以上、事故現場を清掃する(3)出所1年後から15年間、東京都の犯罪被害者支援団体に毎月1万円を寄付する――などの内容が盛り込まれた。和解金額は原告の意向で明らかにされていない。

 原告側は「賠償金をもらっても、遺族の心が癒やされることはない。金額ではなく、償いの行為で2人の命を奪った責任を重く受けとめてほしい」と話している。

 確定判決によると、谷口受刑者は03年3月17日夜、益子町町道酒気帯び運転で暴走。部活動帰りの町立益子中2年の鈴木理恵さんと添谷歩美さん=いずれも当時(14)=をはねて死亡させ、そのまま逃走した。〔共同〕 (12:00)

こういう事件の解決の仕方は、国家が一方的裁くのではなく「個の心情」も汲むやり方になっていると思う。これは民事訴訟だが、このようなやり方を刑事訴訟でも取り入れるようになるとよい。
話を光市の事件の方に戻すと、この場合には彼の「個の心情」は抑圧する仕方なかろうが、そのケアは必要だろう。カウンセラーや心理療法士をつけるなどの方法で「個の心情」を解放するようにはできないものだろうか。加害者に税金を使うのであれば、被害者にもこの程度の救済措置があってもよさそうなものだ。

追記

犯罪被害者などに事例を除くと、最近の日本は全体的には「個の心情の抑圧」が進んできているように思う。岩国市の問題もそうだし、学校での国旗国家の強制なんかもそう。「愛国心」や「靖国」といった「個の抑圧」を誤魔化すための仕掛けもまた復活しつつある。国家にとって「個の抑圧」は仕方のないことではあるものの、昔の封建制絶対君主制から民主主義への流れは「抑圧」解放の歴史でもある。そういう歴史の流れといった意味で憲法9条とインターネットは「個の抑圧」と「暴力の独占」という国家のあり方の転機になるものかもしれないと最近考えている。