『ウェブ進化論』のついての雑感

ウェブ進化論 本当の大変化はこれから始まる (ちくま新書)
遅ればせながら、読んでみた。少し前から購入は済ませて手元にあったのだが、なんとなく読む気になれずにしばらく放っておいたのが、やっとその気になった。読んでみると、これはなかなか刺激されることの多い読書になった。

ウェブの進化論と読むかウェブによる進化論と読むか

本の読み方に正しいも間違いもないのだろうが、著者の意図を正しく汲むかどうかということになれば、ある程度正解・不正解ということは出てくるだろう。本書の場合、後者と読むのが正しいのではなかろうか。もちろんウェブ(の技術)の進化なしにウェブによる進化も起こらない。だからウェブの進化も重要なのだが、著者が「革命」であるとまで強調しているのは、ウェブの進化がブレークスルーになって世の中が大きく変わる、ということなのだろう。
著者の主張どおりの「ウェブ革命」が起こりつつあるのであれば、これはグーテンベルクによる活版印刷発明に匹敵するか、それ以上のものであろう。かの発明も「知」のコストを大幅に引き下げ、それがルターの宗教改革の下地となった。「ウェブ革命」は「知」のコストを極限まで引き下げるばかりか通信のコストも大きく引き下げる。この「チープ革命」がリナックスウィキペディアのような「オープンソース」による「知の創造」を生み出す。さらに「チープ革命」はこれまでのリアル世界を支配していた「80:20」の法則に変わる「ロングテール」の法則を出現させ、新たな形式の経済活動を創造するに至る。
これを「革命」と言わずして、何と呼ぶ! といったところであろうか。
 
ここまででも十分に刺激的であるが、本書の刺激はここにとどまらない。

ネット世界とリアル世界と

本書ではネット世界とリアル世界という表現で、ウェブ技術の進化を享受できる人たちとそうでない人たちの間に溝があるとし、両者の違いをニュートン力学量子力学の違いを引き合いに出して説明する。

「“量子力学”は物質と光の性質を詳細に記述し、特に原子的なスケールにおける現象を記述するものである。その大きさが非常に小さいものは、諸君が日常直接に経験するどのようなものにも全く似ていない。」
「この章では、その不可思議な性質の基本的な要素を、その最も奇妙な点をとらえて、真正面から直接、攻めることにする。古典的な方法で説明することの不可能は、絶対に不可能な現象をとらえて、それを調べようというのである。実際、それはミステリー以外の何ものでもない。その考え方が上手くいく理由を“説明する”ことにより、そのミステリーをなくしてしまうことはできない。ただ、その考えかどのように上手くいくかを述べるだけである。」
ウェブ進化論』の引用の引用。『フォイアマン物理学』より

著者がこの引用を用いたのは慧眼だと思う。それほどに二つの世界は違う。私はこの記述に感じ入ると同時に、もうひとつ、別のものを連想した。“あ、これは「バカの壁」だ”
上記引用がなぜ「バカの壁」を連想させたのか、それらに共通点があるのか、よくわからないが、連想はさらに広がって著者の言う2つの世界のほかに、もうひとつ別の世界が見落とされている、と思った。「自然の世界」である。
“また突飛なことを”と我ながら思うが、本書を読み進めていくと、そういう違いが出てくる背景に触れた記述に出会う。「十代の感動が産業秩序を覆す」として、ビル・ゲイツが受けたであろう感動、グーグル創始者の2人が受けたであろう感動について触れ、その違いを浮き彫りにするが、この違いとは「環境」の違いである。著者自身もシリコン・バレーという環境にあるからこそ、ネット世界とリアル世界の違いを目の当たりにできたのであろうし、そういう意味では皆同じ。結局、人間は環境に左右される生き物であろうということか。

「高速道路」論

これも面白い。本書に記されている羽生善治氏の言葉

「ITとネットの進化によって将棋の世界におきた最大の変化は、将棋が強くなるための高速道路が一気に敷かれたということです。でも高速道路を走りぬけた先では大渋滞が起きています」

がとても含蓄があるという著者の意見には全く同意できる。けれど、その解釈というか、こうした状況が行き着く先への展望は異なる。
似非養老流の解釈で行けば“ますます頭でっかちの人間が増えてしまうのではないか”と懸念してしまう。将棋の世界ならよい。ほぼ純粋に「知的」な世界であって、「現実」世界への影響は余り大きくない*1。だが「80:20」や「ロングテール」の法則が成立する世界はそうではなかろう。大きな影響がリアル世界、つまり有限な世界にあるだろう。まあ、そもそも本書はそのことを論じる書でないから仕方ないのだが、それでも「知の世界のあり方」というのであれば、リアル世界の有限性は大きなテーマであるはず。だが、本書で示されるウェブ進化の先の「知のあり方」では、ますますそこが考慮に入れられなくなのではないか、思わずにいられない。

「聴覚や触覚など人間ならではの感覚を総動員して、コンピュータ制御では絶対にできない加工をやってのける旋盤名人の技術のようなもの。それがどういうことなのかに、ものすごく興味があります」

羽生善治氏のこの言葉は、私にはそういった「知のあり方」への批判だと読んでしまうのだが。古来からのそもそもの「知」というか「知恵」は、そういうものだと思う。少なくとも東洋では。

グーグルについて

「知のあり方」という視点で行けば、グーグルについてもまた見方が違ってしまう。

チープ革命」の結果ネット上には玉石混交の情報が溢れ返るようになった。グーグルの試みはここを再編成するものだという。「世界政府が仮にあるとして、そこで開発しなければならないはずのシステムは全部グーグルで作ろう。それがグーグル開発陣に与えられているミッションなんだよね」

その意気やよし。著者がこの心意気に感銘を受けたのも理解できる。けれど、私などにはこのやり方がいかにも“西洋的”だと思ってしまう。
チープ革命」によってネットに出現したのは、“混沌”の世界である。この“混沌”は、またまた突飛な連想かもしれないが、自然を連想してしまう。その自然を秩序づける。西洋は一神教により、ロゴスにより、秩序付けた。「科学」という思想も「資本主義」という思想も、生まれたのはこの土壌からである。科学と技術が結合して生まれた現代文明の最先端に“混沌”が出現したというのは興味深いことだが、その混沌は、またしてもロゴスで秩序づけられるか?
グローバリズムの進む現在社会の状況を見渡してみるときに、一神教の論理によって世界を秩序付けようとする試みの限界が露呈しつつあるとは、多くの識者が指摘するところだ。グーグルの方法論を否定するわけではないが、そのやり方で統一されてしまうことには懸念を覚える。

*1:余談だが、将棋盤や碁盤に使われる樹木に「かや【榧】」という木がある。将棋盤になるような木は残り少なく、一本数千万以上の値が付くという。そんな木から取られた将棋盤や碁盤は、これまたン千万とか。これなんかは将棋や囲碁の世界がリアル世界に及ぼすささやかな影響であろう