2つの「平和」

「平和」は誰もがみな望んで止まないことだが、この「平和」には2種類のものがある。
1つは、トリノ・オリンピックの開会式でオノ・ヨーコが訴えたような「平和」。日本国憲法前文で謳われている、理想とされている「恒久の平和」。これは残念ながら、有史以来実現したことがない。
2つめは、力がもたらす「平和」。もしくは力と力とのバランスにおいてもたらされる「平和」。戦後60年刊日本国民が享受した「平和」。アメリカが実現しようとする「パックス・アメリカーナ」。これは歴史においてしばしば出現する。
1つめの「平和」を「絶対平和」と呼ぶとすると、2つめは「相対平和」か。
 
実現しやすいのは「相対平和」。権力がいう「平和」は、これ。だがこの「平和」は「戦争」の口実に使われることが多い。この「平和」の基本精神「私が平和ならば、あなたがどうなろうと知ったことではない」
対して「絶対平和」の基本精神は「私は平和を望む。だからあなたにも平和になってもらいたい」。「絶対平和」が難しいのは、誰もがみな、この基本精神を尊重しなければ実現しないということ。一部にでも“私さえよければ”と考え行動する人がいれば、崩れてしまう。
「絶対平和」を目指すということは、もはや「宗教」なのかもしれない。誰もがみな、ひとつの精神を尊重するなんてことはありそうもない。だから「絶対平和」は“絶対”に実現しない絵空事だと、考える人も多いのだろう。
 
そうかもしれない。けれど、それでもやはり「絶対平和」を目指すしたいという人もいる。それは愚かなことだとして非難されるべきことか? 
 
こんなことを考える。もし日本国民が「憲法9条」をもう一度選択するという意志を示したら。押し付けられたものではなく、自ら選んだ憲法と誇れることができたのなら。そこで実現する「平和」は、それは「相対平和」でしかないけれども、それは力によってもたらされたものではなく「絶対平和」への精神によってもたらされた「平和」になる。そうなれば「絶対平和」への実現も“絶対”に不可能とは言えなくなるのではないか。
 
これは甘すぎる考えかな。