『戦争体験を語る会』

本日、わが町の「九条の会」にて『戦争体験を語る会』を行った。わが町に暮らす軍隊経験者お2人に、ご自身の体験を語っていただいた。

M氏の体験談

M氏は真珠湾攻撃のニュースを聞き、すぐに海軍に志願したそう。入隊の試験をクリアし、広島県の大竹海兵団へ入団。3ヶ月の新兵教育を受けた後、連合艦隊第三艦隊、空母『瑞鶴』へ搭乗、第2次ソロモン海戦、南太平洋海戦に臨む。その後は横須賀砲術学校へ入り『瑞鶴』からは退艦。海軍陸戦隊の教育を受けることになる...
それ以降まだまだ話は続くのであったが、残念ながらここで時間切れ。

N氏の体験談

N氏は民間徴用で軍需工場での勤務、のちに志願して海軍入り。これも大竹海兵団で新兵教育を受けた後、広島で防空砲台に配属される。広島に原爆が投下される、まさにその瞬間を目撃した...
 
お二人の話の内容とごくごく簡単にまとめると、上の通り。ここでお二人の話の詳細は紹介しようと思わないし、またそれをしたところでお二人の話の雰囲気・迫力を伝えることができるはずもない。
私がここで書きたいと思うのは、私自身がお二人の話をどのように受け止めたか、である。それしか書けない。
お二人の話を聴いて一番強く感じたのは、お二人は戦後60年を経た今も心の奥にいまだ癒えぬ傷を持っている、ということ。普段は平静に生活を営み、何ごともなかったかのように過ごしてはいても、折に触れて蘇ってくる記憶。そんな心の傷を抱えて今まで生きてこられた、ということ。
海戦のさなか、自らの仕事に追われながら、ふと目を外にやるとそこには沈み行く僚艦の姿。そこには同郷の知人が乗り組んでいる。果たして無事でいるろうか...。
何かの縁で退艦することなった艦。その艦の後の運命に思うとき...(M氏の乗り組ん『瑞鶴』には沈没寸前に撮影された写真残されている)。
被爆直後の広島で目にした光景。防空の任務についていながら、これを防ぐことができなかった自分...。
このおふたりが反戦・非戦なのは当然のことである。お二人の経験から導き出される答えはそうでしかありえない。
お二人は自ら志願して戦いに身を投じたことを後悔されているわけではない。それどころか、そこに誇りを持っておられるとすら感じる。それはそうだろう。懸命に生き抜いてきたのだから。そこを恥じる必要は全くないと思う。
だが、だからといって自らが体験したことが肯定しておられるのでもない。お二人は、お二人が今日まで生き残ってこられたのは、それはお二人が他の戦死者より優れていたからではなく、たまたま運良く生き残ったに過ぎない、そう思っておられるのだ。
この日、体験談を語っていただいたことは、ひょっとしたらお二人にとっては酷なことだったのかもしれない。戦争での体験は“忘れたくても忘れえぬ”とおっしゃった。忘れられるものならきれいサッパリ忘れてしまいたい。思い出すのもつらい、と。けれど、私たちは体験談を語っていただくことを決して無理強いしたわけではない。私たちの呼びかけに自ら進んで応じてくださった。自分たちが味わった悲惨な思いを、後の世代のものが再び体験することがないように、という思いからであろう。
 
翻って、今の世の中の様子はどうであろう。
自分が戦争への原因を作ったA級戦犯とその子孫が「普通の国」と称して再び軍事大国の道へ日本を誘導しようとし、それを多くの者が無関心に見過ごしていく。
「勝ち組」と称し自分が優れているが故にすべてを独り占めにしてもよいと信じる者と、それに追従する多くの者たち。
戦後の日本が空前の高度成長を遂げながら、しかも社会主義国よりも平等と言われたような社会を築き上げることができたのは、戦争を体験した人たちの「自分が生き残ったのは優れていたからではない、偶然に生かされたのだ」と思い故にではなかったかもしれない。平和が当たり前のものとなってしまい、戦争を体験した人たちの「思い」が第一線を退くにつれ、ふたたび戦争と格差を肯定する風潮が大きくなってしまった。これは平和の罪なのか。
 
明治維新の志士、西郷隆盛西南戦争の折に「日本は血を流し足りない」といったそうな。私の先輩に教えてもらったのだが、その人は「第2次大戦でも足りなかったのかもしれない」といって嘆いていた。
私はそうは思いたくない。