最近、立脚点が揺らいでいる

私はもともとは改憲派である。

戦争放棄・戦力不保持は理念としては素晴らしいと思う。だが、現実からすればそんなことは言っていられないだろう、と思っている。軍隊をなくす努力はしなければならないが、要るものは要る。他の国は軍隊を持っている。他の国を信用できるなら、日本は軍隊を持たなくてもいいだろう。非武装中立でいいだろう。だけど、他の国を全面的に信用することはできない。残念だけど、それは無理。
だったら理想とは離れてしまうけど、軍隊は自前でも持たなければ仕方がない。戦争も武力も放棄できるならそれが一番だけど、できないものは仕方がないではないか。だから軍隊が必要なら必要と認めて、それをしっかりコントロールする。憲法はそのように変えるべきだと考えている。
憲法という国の大本の決まりは、誰が読んでも素直に理解できるものにしなければ。恣意的な解釈を許せば、それこそおかしなことになりかねない。そう考えている。

当用憲法

九条の会」に参加したのは、基本は上記のように考えながら、それにしても今の小泉自民党のあり方は異常で、こんな政権が作ろうとしている憲法になんか賛成できるわけがない、憲法をわかりやすい形にしなければならないという考えに変わりはないが、現時点ではタイミングが悪すぎる、と考えたから。アメリカべったりの小泉自民党の好き勝手な振る舞いをこれ以上許したら、とんでもないことになってしまう。9条が日本の戦争への歯止めになっているのは事実なんだから、いま少し9条は残しておく。今の現実からすれば、それが現実的な選択であろう、と。
国の最高法規である憲法といえど、現実は無視するわけにはいかない。その時代、時代に合わせて修正していく必要がある。憲法といったって、“とりあえず”のもの、つまり当用憲法論である。
少し前に『昭和の三傑』という本を読んだ。昭和の三傑 憲法九条は「救国のトリック」だった
これは立花隆氏の『メディア ソシオ-ポリティクス』に紹介されていたので読んでみたのだが、氏の紹介どおり抜群に面白かった。中でも圧巻はやはり「9条幣原喜重郎発案説」のところで、これは一般に言われているGHQによる「押し付け憲法論」に対する反論になっている。どちらが事実なのか、私ごときには判じかねるが、ただ素朴に「幣原発案」ならいいのにな、とは思った。ただ「幣原発案」にせよ「GHQの押し付け」にせよ、9条の戦争放棄・戦力不保持の条項が必要だったことは間違いない。

「公」の理念と「個」の心情

上記『昭和の三傑』では、幣原がマッカーサーをトリックに嵌める場面が描かれてある。これもどこまでが事実でどこまでが著者の創作なのかよくわからないが、とても面白いドラマになっている。私などには単に面白いという以上のものになっていると思えるが、そう思わせるのは幣原とマッカーサーの「個」の心情であろう。ストーリーは幣原の策略がマッカーサーの「個」の心情を誘発し、それが「公」としての理念となったという展開になっているが、策略を仕掛けて幣原の「個」の心情も偽りのないものだということが、上手く描き出されている。
話はいきなり卑小になってしまうが、私自身、「九条の会」で活動する中で出会い、気付かせられる思いがするのは「個」の心情の方である。戦争放棄・戦力不保持という「公」の理念の下に集ったわけなのだが、心動かされる思いがするのは「公」の理念ではなく圧倒的に「個」の心情の方だ。
私の親の年代くらいの終戦時は小学生くらいだった人たちの多くは、布告された新憲法は輝いていた、と言う。では彼らはその輝きを自分たちで直接憲法から読み取ったのかというと、そうではない。話を聞いてみると、親や教師などの大人からそれを受け取った、と言う。それを語る大人たちは輝いていたように感じられた、だから新憲法は輝いていた、と。
そんなことに今頃気が付いたのか、とわれながら情けない思いをするのだが、大切なのは「公」の理念より「個」の心情の方である。少なくとも私は「個」の方に心動かされる。それが「公」へ働きかけるエネルギーになる。いかに「公」の理念が立派なものであっても、それを支える「個」の心情が枯れてしまったらそれは空虚なものでしかない。
憲法は輝いていた、と語る人たちの「個」の心情が我々に伝わってきていないのはとても残念だし、それがもし広く伝わっていたらと残念に思わなくはないが、それでも諦めることはない。私たちのような草の根の「9条の会」の役割は「公」の理念を説明するよりも、むしろ「個」の心情を掘り起こすことではないか、最近はそんな風に思うようになっている。

何が理想で何が現実か

そんな風に考えが変わっていくにつれ、憲法についての考え方も揺らぐようになってきた。9条の理念は、ほんとうに“とりあえず”のものなのか?
リアル・ポリティクスという言葉がある。立花隆氏のHPでもこの言葉が使われ、氏はこのリアル・ポリティクスの立場から憲法9条を守れと主張されている。この主張に説得力を感じるが、最近はちょっと違うのではないか、と思い始めている。
私が心動かされるのは「個」の心情である、と書いた。幣原とマッカーサーの対決でも心動かされたのは「個」である。彼らは互いに国を背負った立場であったから、彼らにとって「公」の理念はリアルなものであったろう。だがそのような立場にない圧倒的多数の私たちにとって、それは本当にリアルなものか? いや、間違いなく影響は受ける。だから全くリアルでないと言い切ることはできないのだが、リアルなのは平生の暮らしの方であろう。理念がリアルなのは平生の暮らしに間接的に影響があるからであって、それがなければ単なるタワゴトでしかない。
国という立場で考えたとき、平和は理想でしかない。私たちの平生の暮らしという立場で考えれば現実だ。平和は生活の基礎なのである。決して理想などではない。
世界に目を向ければ、戦争の中で不安定な暮らしを送らざるを得ない人々がたくさんいる。それも現実で、それから目を逸らしてよいというわけではないが、まず考えるべきは我々自身の現実の方だ。そこに立脚しないと「個」の心情は伝わらない。
憲法が発布された当時、多くの人が9条の条項を見て、「もう戦争はしなくてよい」と思ったという。それは現実の思いであったろう。長い平和な時代の中でその思いが薄れてきてはいるのも事実だろうが、だからといって私たちの生活が平和に依っているという現実がなくなるわけでない。国がいう“現実的”という理念の話は時には私たちのの現実を脅かす。そして現在、そんな時代になってしまった。戦争に限らず国は理念を振り回して、国民の生活を脅かしている。政治家や公務員たちは、屁理屈をこねては自分たちの利益誘導を図る。理念を語る彼ら自身が、理念がいかに空虚なものであるかを証明してしまっている。

戦争放棄は私たちにとっては現実の要請

このように考えを進めていくと、9条の戦争放棄・戦力の不保持は多くの庶民にとっては現実の要請だということがわかる。
では、本当に武力を放棄してもよいのか? そう問われると、答えには困ってしまう。だからまだ9条についてのはっきりとした結論はでない。しかし「国としての議論」に惑わされないようにしなければならないのは、間違いないと思う。
国の立場と庶民の立場のバランスをとるなら、現在の憲法の規定、現在の自衛隊の状態というのが、最もよいのかも知れない。