「愛国心」は必要ない その4

愛国心」は場当たり的なもの

小見出しのタイトルを上のように書いたものの、さて、どんな風に書き出したものか思いあぐねていたところに、 luxembrugさんの「とりあえず」にて、次のような句が目に留まった。

    友達が 少ないやつほど 愛国心

読んで思わず笑ってしまったが、笑った後、なんだか哀しくなってしまった。「愛国心」なんて、しょせんはそんな程度のものだ。「愛国心」をあたかも至上の命題のように思い込んでいる輩の哀れなこと。
愛国心」なんてのは、つまるところ、各人の自己確立上の方便でしかない。通常の人間関係で自己確立できない人間は、仕方がないので、“友達が 少ないやつほど 愛国心“なんてことになってしまう。哀しい。
もうひとつ、逆のケースもある。自己が肥大しすぎて自己=国歌なんて妄想してしまうような輩の「愛国心」。政治家なんかによく見られるケース。これは哀しいなんてことでは済ませられなくて、罪悪ですらある。このケースが始末に終えないのは、「愛国心」を抱いている本人は大真面目・自信たっぷりで、その自信に多くの人が騙されてしまうということが起こりがちなこと。こうなってしまうと「愛国心」が亡国への道になる。
人は己の自己確立の欲求ゆえ、自分が帰属していると感じている共同体に連帯感を持つ。その連帯感は対象となる共同体の存在が際立つようなとき、例えば存亡の危機に瀕しているようなときに強く意識される。
日本という国家が意識されるようになったのは明治維新以後のことであろうが、これは江戸時代の鎖国が解かれ、欧米列強と対峙しなければならなくなった情勢から「日本」という共同体の存在が際立ったためである。その後富国強兵政策を採った日本は日清・日露などの戦争に勝利しさらに存在を際立たせるが、その存在が最も際立ったのは第二次大戦であろう。戦争当時も敗戦後も、日本という共同体の存亡の危機という意識は国民に強く意識されていたであろうから、「一億玉砕」などというスローガンが受け入れられたのだろうし、敗戦後も天皇制が存続した背景となった。
そう、共同体の存在が際立つのは、「戦い」に際してなのである。「戦い」には「敵」が要る。「敵」の存在が自らの所属する共同体の存在を際立たせる。その共同体が「国」である場合、それを「愛国心」と呼ぶだけのことである。
人はさまざまな共同体に多重に帰属しながら社会の中で生活している。家族、職場、学校、地域、自治体、そして国。ある共同体が「敵」を持つとき、その共同体へ親近感が強まる。例を挙げれば、高校野球とか。自分の所属する都道府県の代表に親近感を抱くのは当然のことだし、その代表が母校であったりするとなおさらである。
愛国心」も含めた共同体への連帯感はその共同体の存在が際立った、その場その場において発露されるものである。「愛校心」も「愛郷心」もそうだ。話がSF的になるが、もし宇宙人が地球に侵攻してくるようなことになれば「愛地球心」が全人類に大きな広がりを見せるだろう。それだけのことだ。

愛国心」は必要ない

高度経済成長を達成してからの日本という国には、共同体としての存在が際立つことは少なかった。平和であったからである。日本という共同体の存在が際立つことがなかった分「国」としての共同体意識が薄れ、それが今日のモラルハザードを招いているという見方には正しいだろう。だが、その箍を締めるために「愛国心」を持ってしようというやり方は、危ない。
「愛〜心」はどうしても「敵」を想起させる。「愛校心」や「愛郷心」なら、たとえ敵と戦ったとしてもそれは「国」の枠の中でありルールが定められているから、よい。「愛国心」であってもオリンピックやワールドカップのようなスポーツイベントの場合、やはりルールが存在するので安心して「愛国心」を発露させることができる。ルールが存在している場合は良いのだが、スポーツのような場合を除き、「国」と「国」との間にはいまだ確固たるルールは存在しない。
確固たるルールが存在しない中で、無法な争いとなってしまうとどのようなことになるのか? 「国」と「国」とであれば、戦争である。
共同体の求心力を高めるために外部に「敵」を見出すのは、古来から指導者がよく用いてきた手法だ。だがこの手法がどのような結末をもたらしてきたか、歴史を見ればすぐにわかる。いまや、この手法を用いようとする者こそが「敵」ではないのか。
この「敵」は一方で「愛国心」を唱えながら、一方で共同体としての連帯感を分断させようとしている。世の中が経済的格差で「勝ち組」「負け組」の二分されてしまえば、そこに連帯感などない。それを誤魔化すための「愛国心」ならば、これほどの罪悪があろうか。直接の証拠はないが、状況証拠は数知れず。
日本という共同体の連帯感を再び高めるのに「愛国心」は必要ない。「勝ち組」「負け組」に分断された格差を解消させる方向へ、道を探ってゆけばよい。