「愛国心」は必要ない その3

本題の「愛国心」に入らなければならない。とはいっても前段で触れた「国旗国歌」での論理と同じ論理展開をすることになる。即ち、自由を標榜する国では「愛国心」を制定する「資格」は誰にもない。
ということで、これで結論は出て本題も終了、としたいところだが、これではまだ「「愛国心」は必要ない」というところまでたどり着いていない。仕方がないので空論を続ける。
 

愛国心」はどこから出てくるのか

人という生き物は社会を営む。社会を営むことによって厳しい自然環境に適応し、文明を築き上げてきた。人にとって「社会性」は本能のようなものである。
今“本能のようなもの”と書いたが、ここで“本能である”と断定できないのは、疑念があるからである。果たして「社会性」は人にとって不可欠なものか? 文明が便利であるということには間違いがない。けれどここまで大規模な「社会性」が本当に必要かどうかについては、私にとっては大いに疑問だ。
この疑問には自己矛盾を孕んでいるという認識はある。インターネットのような大規模な「社会性」が生み出した道具を使いながら、その必要性を疑っていることになるわけだから。だが、“失敗は発明の母である”というような意味で、自己矛盾は必要であると思う。これを解決していくことで認識は深まっていく。自己の立つ基盤を信じて疑わないということは、実は「自由」の国にあっては最も忌避すべきことではないか、とすら思っている。ちょっと話が逸れたが、ここにはまた後で戻ってくることになる。
人にとっての“大規模”な社会性については疑問を表明したが、“小規模”な社会性については、ほぼ本能として良いかもしれない。人は自己を確立するのに周囲の「環境」を必要とするからである。人は生れ落ちてから、まず親兄弟などの「環境」を認識しつつ、自己を確立していく。そして成長とともにその認識の範囲を広げ、自己の確立を深め、発達させていく。そして最終的には人類の築き上げた“大規模”な社会を包括するところまで自己を大きく発達させるべきなのだが、残念ながらほとんどの人はそこまでは至らない。
愛国心」の「国」もいうなれば「環境」である。人が「愛国心」を抱くのは「国」という「環境」によって自己を確立するからである。そして「国」という「環境」のなかには社会環境も自然環境も含まれる。人の自己確立の自然環境に因った部分がパトリオティズム、社会環境に因った部分がナショナリズムであろう。
 

民主主義体制での「愛国心」の在り方

だが、私は人にとって「国」という「環境」はその必要性を疑っている“大規模”なものだと思っている。“大規模”でかつ矛盾を孕んだ複雑なものである。
以下、とりあえず「国」という「制度」に限定して考えるが、(「環境」∋「制度」)それでも規模が大きい上に複雑で、往々にして人々の“小規模”なものを犠牲にする。「制度」の規模が大きくなればなるほど、“小規模”なものが犠牲になる際の被害は大きい。大規模”な制度と人々の“小規模”な自己確立との間には、本質的な矛盾が存在するのではないか、と思えるほどだ。そして人の自己確立にとって重要なのは“大規模”なものよりも“小規模”なものなのである。ここに私が「国」という「制度」の必要性を疑う根本がある。といっても私は無政府主義者というわけではない。秩序を維持するための何らかの「制度」は必要であると考える。ただ、そのような「制度」の存在を肯定的には捉えていない。いわば“必要悪”という認識だ。
だが「国」という「制度」を積極的・肯定的に捉えた意見もある。むしろこちらの方が多数意見だろう。「愛国心」を唱える政治家たちはもちろんこちらの意見を支持するだろう。さまざまな矛盾があるにしてもそれは解消すべく努力するべきで、矛盾があるからといって「国」という「制度」を疑う根拠にはならない、ということだ。
私のように「国」という「制度」を認めながらも否定的に捉えるのと、「愛国心」を唱える政治家たちのように肯定的に捉えるのと、その違いはどこにあるのか? その違いこそ、「“愛”国心」であろう。つまり“認める”ことと“愛する”ことは違うのである。
「国」を“愛する”とは一体どういうことか? “愛する”も“認める”も受容することには変わりはないが、その受け入れる範囲は“認める”の方が限定的だ。“認める”のは受容する側にとって有用であるから受け入れる。だが“愛する”の場合、ともすればそれは“無制限に”ということになりかねない。
「国」という言葉は、その指し示す範囲は広い。「国家」という意味もあれば「風土」というような意味もある。先に「愛国心」を考察する対象として「制度」に限定したが、今一度「環境」として風土や文化まで含めて考えれば、社自然環境や長い歴史の中で培ってきた風土*1には“愛する”という言葉が相応しいように思う。ただ、これは「国旗国歌」のところで示したように、各人にとって自由であり愛さない自由もある。
だが「国」の「制度」という側面に関する限り、それはせいぜい“認める”がよいところであろう。「国」の「制度」には不可欠な要素として「権力」が付随してくる。昔から権力と民衆は対立する関係で、民主主義の体制になって権力を民衆が支配する制度になったとはいうものの、その緊張関係が完全に解消されたわけではない。むしろ民主主義体制においては、その「緊張関係」を維持することこそが最も肝要な点ではないか。この「緊張関係」が前提にある以上、“愛する”のは相応しくない。

つづく

*1:ここに天皇制が含まれるかどうか保留