[戯言]世界百名山とブルックナー

先日の街への買出しの時、本屋で目に留まったのがこれ。
名作写真館 1巻 白川義員(1)「世界百名山」 (小学館アーカイヴスベスト・ライブラリー)
500円という価格もあって買ってしまったのだが、掲載されている写真はどれもこれも素晴らしかった。500円の印刷物なので本来の発色は望むべくもないのだが、それは仕方ない。私の財力では一巻(3万8千円+税)×3巻の写真集など、とてもとても、手が出ない...。
この500円の本を見て思い出したのが、何年か前の正月にNHKで放映された番組。『写真家 白川義員 世界百名山に挑む』。再度観てみた。検索してみると、DVDとなって販売されているらしいのだが、私が見たのは自分でビデオ録画したもの。NHK DVD「写真家・白川義員(よしかず)、世界百名山に挑む」
 
この番組もとても素晴らしいものなのだが、なかでも印象に残っているのは白川義員氏の次のような話。

真っ暗闇からだんだん、だんだん夜が明けてくるでしょう。そうすると一番高いエヴェレストの頂上にパーっと光が差すんですね。...そうするとね、なんというか全くの死の世界からですね、山がひとつひとつ雄叫びを上げて躍り上がってくるわけですから。声が聞こえてくるわけですよ、ワーっという大音響をあげてね...

この話を聞いて、私の脳裡に響き渡ったのはブルックナーだった。
交響曲第8番・第4楽章フィナーレの壮大と形容するのも憚られるようなコーダの音楽。そして演奏はやはりこれか。
ブルックナー:交響曲第8番
不気味な静寂の中からコーダが開始される(28:14)*1と、漆黒の暗闇の中で東方がかすかに白み始める。音楽が徐々にクレッシェンドして響きのボリュームが増してくると、巨大な山容が暗闇の中からその威容を浮かび上がらせる。そして短調の響きが長調に変わり(30:40)クライマックスに突入すると、ついに陽光が差込み山頂が輝く。金管の咆哮に大地が雄叫びを上げる...。
ブルックナーの音楽には大自然の壮大さが表現されているとは、よく指摘されることだが、私もそのように感じる。自然の光景が時間と共に移り変わってゆくのをそのまま音楽にしてしまったようなもののように思えてしまう。ただし、本当の自然はブルックナーの音楽より遥かに歩みが遅い。長いと指摘されるブルックナー交響曲だが、それがもし自然の描写だとするなら随分と時計を早回ししていることになる(もちろんエッセンスを凝縮してだが)。だから私はなるべく遅い演奏が好きだったりする。
ブルックナーの音楽=自然描写の特徴を最もよく示すのがクライマックス。これは全く独特なもので、極度の緊張感と絶頂での開放感が同時にやってくるものだ。このように書くと矛盾しているようだが、そうではない。冬の山の頂で身を凍らす寒風に震えながら、眼下に広がる自然の壮大な風景に心奪われている、とそんな感じなのである。
白川氏の話しの中にもあるのだが、人間は圧倒的な自然の前に打ちのめされ、その人生観を大きく転換することを迫られる。このことは、一見全く別次元の存在であるように思える自然と人間が、実はどこかで繋がっていることを示している。この繋がりをあるいは“神”と読んだのかもしれない。
ブルックナーという作曲家はもちろんかつて実在した生身の人間で、その彼が楽譜に書いた音楽を実在化させる演奏家も、もちろん生身の人間だ。生身の人間が作り出す音楽が、自然と通じる、神を予感させる。不思議なことだが、これはひょっとしたら、私たち現代人は昔の人々が当たり前に感得できていたことを失ってしまったからかもしれない。
白川氏の話の中からもうひとつ。「人間が立ち入ってはならない領域かもしれない」。ブルックナーはそこへ立ち入ってしまっていたのかもしれない。未完に終わった交響曲第9番のフィナーレ。もしブルックナーが完成させていたら、どんな世界が広がったのだろうか。

*1:上記演奏でのタイミング