「愛国心」は必要ない その2

昨日のエントリーは尻切れトンボで終わってしまっていた。「だがこれは思考停止の言い訳でしかない」としながら、なぜそうなのかについて触れていない。これを補うところから今日の話を始めたい。
 

すべてを法律で規定できるのか

仮定の話として、「日の丸・君が代以外のもの」が国旗国歌であると制定されたとしよう。この制定には国民の多くが納得しないであろうから、そういう制定がなされたということは一部の人間が独裁的に決定したということになるだろう*1。では逆に多くの国民が納得するもしくは抵抗を感じない「日の丸・君が代」であれば問題はないのか? 現実に「日の丸・君が代」の国旗国歌制定に反対の人は少なからずいたわけだから、全く何の問題もなかったわけではない。けれど、それは国民の代表が合法的に決定したものだから、という話も聞こえてきそうだが、法律論としてはそうであっても、問題は法律論に留まるわけではない。
「「国歌国旗法」が問題になったのは「日の丸・君が代」を規定するかどうかについて」とするのは、問題を法律論に矮小化してしまうことである。世の中のすべてが法律で律しきれるわけではない。小は身近な慣習から大はナショナリズムのようなものまで、法律の世界には収まりきらないところが世の中にたくさんある。
国旗・国家の問題は、法律の世界に収まりきらない領域*2に及んでいると私は考える。これを無理やり法律において律するとどうなるか? 共同体への帰属意識に傷がつくのである。「日の丸・君が代」を否とする人々は共同体への信頼感を損なってしまう。日本という共同体の場合、成員の帰属意識が高いので「国旗・国歌」の問題で共同体が分裂してしまうというところまでは至りはしないが、これが共同体への帰属意識が低いところではどうなるか? このような問題をきっかけに共同体が分裂してしまう恐れがあることは容易に想像できよう。

自由」な国にはすべてを定めることのできる「資格」のあるものは存在しない

国旗国歌法」は、それが日本という国のナショナリズムを強化する目的で制定されたとしたら、その目的を果たさないどころかむしろ障害になってしまっているというのが私の認識である。かつての日本ならいざ知らず、現代の日本では国旗・国歌のようなものは法律で制定してはならない。現代の日本にはそのようなものを制定する「資格」は、誰にもないのである。
そしてこれは日本のみならず現在多くの国が制度として採用している民主主義の、その根幹となる「自由」が表われた結果であると私は考える。「自由」を保障する社会では法に馴染まない領域まで規定する「資格」は誰にもない。
では、国旗・国歌は必要ないのか? この問いについては、まだ今のところ私は明確な答えは持ち合わせていない。規定の必要はないとはいえるが、国旗・国歌の存在そのものは否定できないように思う。これについては後述する。
 
今日もまた前置きのつもりの「国旗・国歌」の話で終わってしまった。本題の「愛国心」については、また続き。

*1:とても短絡的な思考だが、話をわかりやすくするのが目的なので

*2:ホントにそんな領域があるのかどうか、実はよくわからない。立法に携わる人たち、特に最近の人たちに「俺たちは何でもかんでも決めてしまえる」というような傲慢さが感じられるような気がして、そんなことはないだろうと素朴に思っているだけ