「大森林の小さな家」

NHK教育で放送されているETV特集。25日の放送内容が「大森林の小さな家」〜熊野・野尻さん一家の十年〜であった。

熊野の果てしない大森林の中に、たった一軒で住み続ける7人家族を、NHKでは9年前から映像で記録してきた。和歌山県熊野川町畝畑。かつて山で生計を立てていた50戸の集落がいまでは、野尻さん一家と1キロ離れたもう一軒だけになってしまった。野尻皇紀さん(54歳)、母金子さん(84歳)、妻マサコさん(36歳)と優紀ちゃん(12歳)、皇洋くん(11歳)、俊彦くん(10歳)、瑞紀ちゃん(8歳)の4人の子どもたち。これは森に住み続ける家族の10年間の記録である。
http://www.nhk.or.jp/etv21c/backnum/index.html

私が今住んでいるのも熊野である。畝畑という場所は知っている。TVに登場した家族を直接知っているわけではないが、噂話には聞いたことはある。田舎は土地は広いが、世間は狭い。
それにしても畝畑とは。私だって田舎が好きで暮らしているわけだが、それにしても畝畑は不便なところだ。番組では最寄の都市、新宮まで40kmと紹介されていたが、我が家とて新宮までなら大差ない。いや、距離で言えばもう少しあるかも。しかし時間で言えば畝畑は倍近くかかるだろう。主要道に出るまでの道が悪い。少し大きな台風でも来れば道が崩れて孤立してしまいかねないようなところだ。そのようなところで暮らしていくというのだから、よほどの愛着があるのだろう。

一家の暮らしぶりは、私などにとっては目新しいものは何もなかった。私自身も経験のあることか、見聞きしたりしたことばかり。ハチミツ採りやアマゴ採り、狩猟など、まだまだしている人は身のまわりに多い。そういえばキノコ、マツタケ狩りが出てこなかったな。
山の恵みの採取に関して感心だと思ったのは、山のものを換金しないで近所付き合いのために使うということ。これは田舎の人だれもがそうというわけではない。私もよく鹿肉なんかを頂戴するが、猟をする人、ハチミツ採りをする人で、それらを全く換金しないという人は、少ない。趣味としてしている人なら別だが、獲物を多くとる人ほど換金するものだ。それを全くしないというところに、この父親のポリシーを感じる。
一番関心を持ってみていたのは、父親の仕事、林業のこと。最初の頃は東京の観光会社所有の山林の管理人ということで、この仕事で年収500万と出ていた。これは正直、うらやましい待遇だと思った。700haあまりの山林を管理するのに年間500万ほどの人件費の負担も出来ないほど林業は不振だ、というような
番組の紹介であった。これは都会の基準で見ればたいしたことはないだろうが、現在の当地では考えられないような好条件だ。10年ほど前はその程度の条件が一般的だったのかな。地元の仕事仲間に取材してみる必要がある。
そして父親はリストラに遭って管理人の仕事を失い、造林の請負師となって生計を立てていく、ということになるのだが、この辺りの展開は、まず一般的か。けれども、それでも不便な畝畑を捨てずに其処に残ったというのは、すごい。この根性は見上げたものである。
しかし、根性だけではどうにもならないことも出てくる。子供の出産のことも描かれていたが、より大変なのは教育の方だろう。子供たちが学校へ通うのに、町がその一家のためだけに車を出す(予算が200万!)ということになったというが、この税金の使い方には少々疑問を疑問を感じた。致し方ないとはいえ、費用対効果を考えるとバランスが悪すぎる。
熊野には(熊野だけではないだろうが)廃村になってしまった集落が幾つもある。人が自然にいなくなったというようなところも多いが、半ば強制的に集団移住させたところもある。一昔前まではそのようなことも行われていたわけだが、今は難しいのだろう。強制的に移住させよと主張するつもりはないし、父親の郷土への愛着心は見上げたものだと思うが、それとこれとは別だろう。田舎の行政は“痒いところに手が届く”ほどよくやってくれるが、その分高コストでもあるわけで、そのあたりに田舎の活力が失われていった一因があるとも思う。
子供の教育の問題に話を戻すが、この問題はこの一家ならずとも田舎の人たちには大きな重荷である。小・中学校までは、複式学級になったりもするが、まあ、なんとかなる。複式学級はそれはそれでメリットもあるだろう。大変なのが高校以上の教育だ。この一家の子供たちはまだその年齢には至っていないのだが、その年齢に達してしまうと、その子供だけが家をでるか、家族ごと郷里をでるか、その選択を迫られることになるだろうと思う。これは不便な地に住むものには避けることの出来ない選択だ。
だが、不便な田舎はデメリットばかりではない。

 深い森に住み続けるある家族のさまざまなドラマに満ちた10年の歳月を追い続けることで、現代の私たちが見失っているかもしれない家族のきずな、自然との暮らし、そして生きることの原点を見つめる長期取材の記録である。

この引用も先のHPからだが、ここに書いてあるような“生きることの原点”が見出しえる、いや、見出しやすいというのが最大のメリットである。父親は子供たちに森の恵みを収穫する方法を教える。それは子供たちの父親が、そのまた父親から教えてもらったもの。それを子供たちに受け渡す。子供たちはそんなことよりも、パソコンでゲームするほうが面白いという。だが、その経験は彼らが成長してひとり立ちしなければなったときに、心の糧になるだろうと思う。幼い頃に自然のなかで生きていくという経験は金で買えるものではない。あの子供たちは実は恵まれた子供たちだ。今、都会に住まう人々の間では自然と接することに“癒し”を求めるのがブームのようであるが、そのような手前勝手な接し方では、自然の本質には触れられない、引いてはそこから“生きることの原点”など見出せない。彼らのように自然とは“対決”しなければならない。子供頃に極自然にそれを学ぶことが出来る彼らを、私は羨ましくさえある。
ただ不幸なことがひとつあって、現代社会では彼らの享受したメリットはそのままでは発揮できないということ。こういった類のものは、郷里を出るという経過を経なければならないだろうから。
この家族のドラマは、現代社会では、人間社会で生きることと自然のなかで生きることの距離の大きさを物語っている。かつてのように自然が人間社会のすぐ隣にあるような、そんな時代に戻ることはもはや夢物語なのだろうか。文明が発達するのは良いことだが、このままでは自然と接することが出来るのは、ごく限られた人間の特権になってしまうかもしれない、とすら思う。