「愛国心」と「心の所得」

今、愛国心について関心が高まっている。特に教育基本法の改定を巡って政治家の発言が相次いでいる。

安倍官房長官ライブドア事件は「教育が悪いからだ」
安倍晋三官房長官は16日夜、東京都内のホテルで、小泉純一郎首相と自民党総務会メンバーらとの会食に同席した。安倍氏はこの中で「ライブドア事件(の原因)は規制緩和と言われるが、教育が悪いからだ。教育は大事で、教育基本法改正案も出したい」と述べ、同方改正案の今国会成立に意欲を示した。
毎日新聞 2006年2月16日

安倍官房長官は:教育基本法、今国会での改正に意欲
 安倍晋三官房長官は17日夜、東京都八王子市内で講演し、教育基本法改正について「与党で最後の調整に入っている。ぜひとも行いたい」と今国会での改正に意欲を示した。そのうえで「自民党としては『国を愛する心を涵養(かんよう)する教育』をしっかり書き込みたい。与党の中に『国を大切にする心』でもいいではないかという方々もいるが、随分違う」と述べ、改正案に「愛国心」の文言を盛り込む考えを強調した。
毎日新聞 2006年2月17日

そんなわけだから、私もここで「愛国心」について自分の意見を書いてみようと思ったが、その前に「心の所得」について再度触れる。「愛国心」と「心の所得」は私には同じベクトルを持った観念だと思うが、先に「心の所得」の方を書かないと、どうにも自分の中で収まりがつかない。

では、「心の所得」とはなんぞやということであるが、これはわが和歌山県知事が「緑の雇用」という政策を提唱した際に唱えるようなった観念である。

随想 心の所得より
緑の雇用事業」を提唱以来、私はよく「心の所得」ということを申し上げている。確かに山の仕事は厳しく、収入も都市に比べると少ない。しかし、森林の整備に携わっていることで、地球環境に貢献しているという誇り、また、自然に囲まれて生活することで得られる精神的なやすらぎ、そして、人間関係が希薄な都市での生活に比べ、地域にとけ込み周囲から頼りにされる存在。こういった充実感を「心の所得」と呼べないだろうか。二十一世紀の成熟した社会では、金銭の多寡よりも、この様な価値観が求められている。
http://www.pref.wakayama.lg.jp/chiji/essey/data/20030101kankai.html

国会議員や県知事ほどにも偉くなってしまうと、人の心の中のことまで、あれやこれやと言う資格があるとお考えになるらしい。「愛国心」もそうだが「心の所得」もその典型だ。「年収は300万でも、心の所得が300万あれば合計で600万の収入だ」というようなワタゴトを緑の雇用の研修のときにお役人に聞かされたものだ。そのときはよほど抗議してやろうかと思ったが、周りの者たちは感心したように聞いているし、要は場の雰囲気を壊したくなかった(日本人的。勇気がなかったとも言う)ので、止めにした。けど、あとで抗議のメールを知事宛に送っておいた。そのときのメールがこれ。

subject:「心の所得」というが・・・・

私は知事の提唱された「緑の雇用事業」で和歌山の地へやってきたものです。
緑の雇用事業」は各方面からの評価も高いようで、その内部の人間のひとりである私もこの事業に参加することができて、よかったと実感しています。

しかし、知事が随想で発表されている「心の所得」という言葉には、どうにも抵抗感を感じてしまいます。
いえ、私自身、「心の〜」は確かにこの山村に存在していると感じています。当地に来て以来の毎日の仕事や生活の中で確かにそれを感じます。しかし、それは「私」の「心」のなかにのみある存在で、あくまでもprivateなものです。私が「緑の雇用事業」に参加したいと考えた動機は、まちがいなく「心の〜」であります。私以外の参加者も、おそらくはそうでしょう。大勢の人が「心の」何かをもっているにせよ、それがどれほどたくさんあろうとも、「心の」ことはどこまでもprivateなことだと、私は考えます。

そのprivateな「心の〜」ことについて、公の立場の方が語る。語ることそのものは、何も悪いことではないと思います。しかし、privateなものでしかないものを、あたかも現実的・普遍的に価値があるかのごとく語るのはいただけない。
つまり、privateな「心」という言葉とを現実的な「所得」という言葉と結びつけて「心の所得」という言葉を造り、それが山村に「現実に」あるかのごとく語り、そして、それが「現実」の「所得」と同価値であるという論法。
このような論法は、今も昔も、施政者のよくなすところで、例えば、人々の祖国や郷土を思う心情を「愛国心」と呼んで普遍的なものの如く宣伝し、戦争に駆り立てる・・・、北朝鮮イラクや、そしてアメリカで今もそのようなことがなされているのではないでしょうか。
これは極端な例でしょうが、「心の所得」云々の話にはこれとよく似た匂いを私は感じます。

知事は本当に本当に「心の所得」なるものが、現実に普遍的に山村にはあるとお考えなのでしょうか? もし、そうであるならば、なぜその山村に生まれ育った多くの人々が故郷を離れて都市に移り住み、過疎問題が起こるのでしょうか?
どんな家庭や企業、国・地方自治体などの機関でも、所得や収入があれば、当然のことながら「支出」があります。ところが、知事は「心の所得」のことはおっしゃるが、「心の支出」のことについては何もおっしゃらない。少なくとも私は、今のところ、知事や県関係者のそのような発言には出会っていません。ひょっとしたら、報道のなされ方に問題があるのかもし、私の情報収集が足りないのかもしれませんが、いずれにせよ「所得」の話しか聞こえてこないというのは問題だと思います。
山村が過疎化してゆく原因、それこそが「心の支出」なのではないでしょうか。おそらく、知事も県の皆さんもわかっていらっしゃると思うのですが。
山村には、「心の所得」も「心の支出」もあり、その収支は人それぞれでしょう。それは都会での生活でも、所得、支出の質こそ違いはすれ、同じだと思います。ですから、私は人それぞれであるところのものを、知事が「心の所得」云々と普遍的に語ることに引っかかりを感じるわけです。

それより何より、公務員の皆さんに、国民に奉仕するその仕事の誇りを持って頂いて、大いに「心の所得」を得ていただき、昨今の厳しい経済情勢の中での民間の人々の辛苦、そして国・地方の厳しい財政事情に鑑みて、公務員の給与をせめて半分でも、「心の所得」で置き換えていただく。そうしますれば、財政問題も一挙に解決し、国民の公務員に対する信頼も高まり、社会の閉塞感も払拭できる・・・、そのようにはならないものでしょうか?
なるわけは、ないですね、誰が考えても。
けれども、知事や県関係者はそのような発言を私たちに向かってなさるのです。

知事は21世紀の価値観には、金銭の多寡ではなく、心の充実感が求められるとおっしゃっています。この意見には同感です。しかし、現実はグローバルスタンダードの名のもと、ますます金銭の多寡が現実を決める世の中に変わりつつあります。私を含め、「緑の雇用事業」で和歌山にやってきた者の多くは、このような社会に違和感を感じ、まさしく「心の充実感」を求めてこの地にやってきました。それは、「心の所得」などがあるからではありません。山村での生活でえられるであろう心の充実感と、その地での生活の現実的なリスクを秤にかけ、自分の持つ価値観、個性とよく照らし合わせた上で、決断しやってきたのです。
その証拠に、私の仲間はほとんど、都会で失業者だったわけではありません。都会での安定した生活を捨てて、やってきたのです。

さんざん批判をならべたてましたが、最初にも記したとおり、「緑の雇用事業」のことは高く評価しております。この事業がなければ、たとえ田舎暮らしがしたいと望んでいても、その実現には多くの壁にぶつかることになったでしょう。社会の多様な価値観を持つ人々に、もう一つの選択肢を提供したということでの評価です。

今、自分自身で読み返してみて、言いたいことは既にこの時点で言ってしまっているのに気がついた。進歩してないということだな...。
このメールの送信記録を見ると2003年3月。当時はまだ「愛国心」が今ほど話題にはなってなかったし、またなるとも思っていなかった。わずかばかりの間になんだか世の中の雰囲気がずいぶん変わってしまった気がする。田舎にいると普段はなかなか実感できないのだけれど。

施政者にとってみれば、「心の所得」や「愛国心」ほど都合の良いものはないだろう。このようなものを信じ込ますことが出来さえすれば、田舎で働くものには年間300万を確保すればそれでよいのだし、かつての例だと兵隊を集めるのに一銭五厘赤紙が一枚あれば事足りるわけである。危ないことだが、さらに危ないのはこの手のタワゴトを信じてしまう人が多いこと。私の周りの雰囲気もそうだったし、googleで「心の所得」を検索してみても、引っかかるのは肯定的なものばかり。
さすがに「愛国心」ともなるとかつての戦争の経験があるので肯定的なものばかりではないが、それにしてもA級戦犯の子孫が「愛国心」などと堂々と語れる世の中はどうかしている。
 
追記:
昨晩このエントリーを書いて、翌朝見直してみたのだが、「A級戦犯云々」はよくない。どのような立場の人間であっても己の信条を語る資格はある。こんなことを書いていては「愛国心」や「心の所得」を非難する資格がなくなってしまう。
誰が何を語ろうが基本的に自由というのが今の民主主義の世の中の基本だが、立場のある人間の発言と私のような民草とでは当然のことながら重みが違う。それゆえに立場のある人間は「思想・信条の自由」について、十分留意しなければならない。自らの信条を語りそれを実行していくのは政治家の責務だ。だが限界もある。政治家とて立ち入ってはならない領域もある。そのことを十分に認識しないのではないか。
エライ人たちは自らの領域に踏み込まれるとすぐに反応するくせに、他人の領域にはズケズケと入り込んで恥じることが少ない。最近は「格差」についても議論が盛んだが、こういった「立場」を背景にした他人の領域侵害も、多くの人にに「格差」を感じさせる一因であるかもしれない。