新興市場の株価 下落止まらず、がどうした?

このうち、ライブドアが上場する東証の「マザーズ」では、20日も株価の値動きを示す指数が大きく下落し、ライブドア本社に強制捜査が行われた先月16日につけた、ことしの最高値と比べて47%値下がりしました。また同じ新興企業向けの市場「ジャスダック」と、大阪証券取引所の「ヘラクレス」の指数も、先月16日をピークに下落に歯止めがかからない状態が続いており、20日までの下落幅は「ジャスダック」が24%、「ヘラクレス」が41%と、この期間中の日経平均株価の値下がりが5%にとどまっているのと比べて、大きな落ち込みとなっています。新興市場では、個人投資家の積極的な投資で、去年の後半からほぼ一本調子で株価の値上がりが続いてきましたが、ここにきて大幅に下落している原因について、市場関係者は「ライブドア事件をきっかけに、個人投資家の間で個別企業の業績や将来性をあらためて見直す動きが広がり、投資に慎重になっているためではないか」と分析しています。

このニュースは昨日の朝、仕事へ出かける前のNHKニュースでみた。この手のニュースには、いつも引っかかる。素朴な違和感を抱いてしまう。だからなんなのだ?

この違和感の一因は、私が株など所有していない(したくても出来ない)からだ。だから株が上がろうが下がろうが、直接利害に関係はない。
だが、全く関係がないかというと、そうでもないらしい。詳しい理屈はよくわからんが、このような株式市場の価格の変動は景気の動向を左右し、それが巡って我々庶民の暮らしにも影響を与える、そうな。
暮らしに影響が出るのは事実だろう。だが、株式市場の価格変動が“事実”なのかどうか? いつも疑問に感じる。
何をバカなことを、と思われるかもしれない。東証やらマザーズやらヘラクレスやら、そういう取引市場は現実に存在して、そこで実際取引も行われている。そんなことを事実かどうか疑うなんて、どうかしている、と。
だが、やはりひっかかる。例えば、一連のライブドアの騒動で何千億円の資産が、バブルの崩壊で何百兆円もの資産が“消滅”したとか。その数字を理解できなくはないが、それって虚構だろう、と感じてしまう。
 
そもそも「お金」とは「通貨」自体が人間が作り上げた虚構だが、それでもそれがもの(自然物)と結びついていれば、その存在は“事実”として感じられる。普段私たちが持ち合わせている感覚がそうだ。1000円あればこれこれの品物を購入することが出来る、という感じ。
けれど、株式をはじめとする金融の世界は、もうこれは虚構そのもの。
そして悪いことに、この虚構の世界で生滅するものが、現実の世界では価値をもってしまう。このデタラメはなんなんだ?
   
まあ、虚構もいいだろう。どうせ人間は自らの頭のなかで作り出す虚構から逃れられないのだから。私自身、いまPCに向かってやっていることも虚構を作り出す作業だ。虚構そのものを否定する気はない。
しかし、それにしても、と思う。今の人間の世界は、虚構と事実の間のバランスが極めて悪くなっているのではないか。あまりにも人間の都合ばかりで回っていってやしないか。
そんな風に感じるもんだから、養老孟司さんの著作なんかにはとても共感したりする。
科学技術がこれほどまでに発展する以前の人間の世界は、自然のなかでは小さな存在だった。その時分は人間が己の都合だけで考え動いても、自然はビクともしなかった。サハラは昔は草原だったのを人間の放牧で砂漠にしてしまったと言われるように、自然のバランスがデリケートな場所では人間の活動の影響を大きく受けたようなところもあったが、地球全体としてみれば大したことはなかった。ところが、今は違う。人間の活動が大きくなってしまって、自然に大きな影響を与えるようになってしまった。これが環境問題。
 
今の世の中、経済学というものがもてはやされているが、どうもこれはおかしいと思う。「需要と供給で価格が決まる」だのという理屈は理解できなくはないが、ここには人間の都合しかない。
さらに最近は「時価会計」というような制度を採用して虚構の上に虚構を重ねるようなことになっている。株式の時価っていったい何? そんなのは投資家の期待値を表しただけのものではないのか? 会社の経営なんてのも虚構かもしれんが、その虚構の基盤ですらさらに実体のないところを根拠にしているというのだから、世の中おかしくなるのも道理だ。
ものの価値を測るのに人間の都合で作り出した物差しだけで測るのは、そろそろやめにしてはどうだろう? 自然には自然のルールがある。昔の人たちはそれに則して活動をしてきた。いつのまにやら人間は科学を発達させ、自然から離れて独善的に行動するようになってしまった。
発達した科学は、一面では人間の独善的な行動の基盤になってしまったが、一面では自然の仕組みを解明するようになってきてもいる。ぼちぼち、人間の都合と自然のルールがマッチングするようなものの尺度の測り方が“科学的に”に生み出されてきてもよさそうなものだが。科学にはそこまでの力はないか?