いたましい事件

またしても痛ましい事件があった。滋賀での2園児殺害事件。
事件の内容についてここで触れようというのではない。ただただ痛ましいの一言に尽きる。
それにしても、ここ半年ほどの間に犠牲になった幼い命は、これで何人目になるのだろうか? ネットで調べればすぐにわかるだろう。記憶をたどれば幾つか思い出すだろう。けれど、そんな労力すら疎ましく感じる。なぜこんな社会になったのだろう?
事件が起きるたび“この犠牲は無駄にしてはならない”という言葉が関係者の口から発せられる。そして“子供たちを守る”活動が始められる。わが地域でも「子供安全パトロール」と称して、子供たちの登下校時間に合わせて、大人たちが通学路に立つようになった。
このような痛ましい事件は人々を震撼させる。人々を突き動かす原動力となる。
特に、小さな子供を持つ家族は他人事には思えないのだろう。それはよくわかる。
 
だが、不思議に思うことがある。
人々は、幼い命が失われることに敏感だ。ではなぜ、戦争については鈍感でいられるのだろう? 
ヒトラーは「大衆は、小さな嘘より、大きな嘘を信用する」と著作に記した。幼い命が失われた事件を正当化することは誰にも出来ないが、これが戦争になってしまうと不思議と正当化の論理が罷り通ってしまう。
 
今、国会はホリエモン・メール騒動で騒がしく、憲法改正論議がどうなったのか、聞こえてこない。ひょっとしたらこの騒動で小泉内閣が吹っ飛ぶような顛末になり、憲法改正論議はしばらく遠のくことになるのかもしれない。そうなることを期待するが、それでも日本を“普通の国”にするべきと考える人たちがいる以上、この論議はまた蒸し返されるだろう。
彼らはいつも大きなことを語る。彼らにはその義務があるからだが、その彼らとて実は小さな人間だ。だから小さな人間の小さな都合が働く。そして、彼らの大きなこと(大義名分)と小さなこと(保身)の間には断絶がある、つまりは嘘があるように感じられないか。彼らにとって大事なのは大きなことよりも、われわれ庶民と同じく小さなことではないか。
 小さき人間には、大きなことはなかなか理解しがたい。それゆえに小さな嘘は見破ることが出来ても大きな嘘が信用されてしまう。残念ながらヒトラーの言葉には一面の真理が含まれていると言わざるを得ないのかもしれない。
 
う〜ん、またわけのわからん戯言になってしまった...。