格差社会

この話はやはりここから始めなければなるまい。小泉首相の「格差が出ることは悪いことだと思っていない」という発言だ。私もこの発言はケシカランと思う。これは、建前であっても民主主義を標榜する国家のリーダーにあるまじき発言・認識だ、と。
 
この人も、純情バカの部類であると私は思う。ホリエモンもそう。そのようの公言して憚らなかったのは有名な話。他にも、どこかのホテルチェーンの社長。この人は反省したようだが、それまでは「自分は上等な人間」だと思っていた、らしい。
そう、この社長が一番わかりやすい。こういう人は自分は上等だと思っているのだ。いやいや、誰だって自分は上等な人間だと思いたい。それを周囲に認めてもらいたい。そのために頑張る。そして、実力か運かは知らないが、社会的に“成功”してお金や地位が手に入るようになると、自分が“上等な”人間であることが証明されたと思い込んでしまう。その結果として「格差が出ることは悪いことだと思っていない」となってしまうのだろう。
このような思考経路は、成功した人の専売特許ではない。未だ成功していないが、成功する予定の人もこの思考経路に陥りがちだ。で、成功できそうも無いがまだ未練がある人は、完全にこの思考経路から脱出できずにひがむ。完全に吹っ切れた人、もとから成功に興味の無い人は、全く別の思考になる。
 
話を純情バカに戻すと、この人たちは自分が思っていることを正直に白状してしまったというだけのことだ。だから根はいい奴らなのだ(ホントかな?)。それにこの人たちには同情すべき余地もある。これまでさんざん周りの人から持ち上げられてきたのだ。勘違いするようになるのも無理あるまい。
 
話はまた逸れるが、そう考えると社民党はエライ。周りから非難されようが、自分の純情を貫く。筋金入りだ。これだけは認めなければならない。
 
「格差が出ることは悪いことだと思っていない」と発言する人間、それを支持する人間は自分のことを“上等な”人間だと思っている(勘違いしている)人間だということだ。だが、この人たちの考えている通りだろうか? 人は自分が上等かどうかはなかなかわからないが、他人が上等かどうかの判定はできるものだ。
 身近なところで考えてみるといい。金持ちの人間や会社の上司など、彼らはみな例外なく上等な人たちか? そういう人もいるにはいるが...。そもそも、本当に上等な人間は「自分は上等です」なんてことは言わないだろう。
 
では、格差はあってはならないのか? そうとも言い切れないから難しい。個人の能力差は間違いなく存在するからだ。これを無理に是正しようとすると悪平等に陥ってしまう。けれど、悪平等が良くないからといって、大きな格差がつくような社会のあり方が正しいというのも暴論だ。まして今の日本で進行しつあるのは、わずかな能力や機会の差が大きな格差に繋がるという事態だ。これは“格差のある”社会などではない。“格差を増幅する”社会である。
「格差増幅社会」を容認する人たちは、それは自由な競争によるものだから、正当なものだ主張する。だが、こんな理由では納得できない。この理由では“持てる者”と“持たざる者”ではスタートラインが明らかに違うという事実を説明できない。
この手の理由付けは、私にはタワゴトとしか思えない。むかしむかし、“身分”というものがあるのが常識だった時代の、「何ゆえ私は高貴な身分なのか」という理屈付けと同程度のものにしか思えない。“持てる者”の手前勝手な理屈にしか聞こえない。
 
こんなことを書くと持たざる者の僻みだと言われるであろう。それを否定する気も無い。だが、これだけは言っておきたい。僻みパワーを侮るな。