レッテル

とあるきっかけで始めることになってしまった護憲運動だが、この運動に参加するについては、ちょっとした覚悟が必要であった。「レッテル」を貼られてしまいかねない、という覚悟である。この手の運動をする人間にはに対するある種の「レッテル」を貼られてしまいかねない。つまり、護憲運動をするような人種は「アカ」だ、として拒絶感を持たれはしないか、ということだ。
今時そんなことはないだろう、と思われるかもしれない。だが、当地は田舎である。都会よりも人間関係が濃密だし、それを受け入れなければ生活がしづらい。そこへ持ってきて保守王国という土地柄だ。人々のものの考え方も、昔とあまり変わらないようなところがある。なにせ新聞購読世帯が全世帯の3分の1程度というようなところだ。そんなところで私のようなよそ者が、あいつは「アカ」だから...、というような目で見られることになってしまうと、具合の悪いことがあるのではないか。そう心配をせざるを得ないのだ。
もっともハナから別種のレッテルを貼られてはいる。「変わり者」というレッテルである。山仕事というきつい上に稼ぎにならない仕事に、都会からわざわざ好き好んでやって来るなんていうやつは、変わり者としか理解できないのであろう。だがこれはさほど“キツイ”レッテルではない。「変わり者」という見られ方は相変わらずされるものの、と言うより本当に根っから変わり者だということがバレてしまっているものの、それはそれなりに受け入れてもらえるようになってきている。
だが、「アカ」というレッテルの方はどのようになるかよく分からない。現に地元で親しくなった人に「憲法9条」と問うてみると、間髪をいれず「アカ」と返ってきた。やっぱり未だにそういう雰囲気は根強く残っているみたいだ。
こういう雰囲気が未だあるということは、私たちの個人的な心配もさることながら、護憲をアピールしていく上でやはり「レッテル」が大きな壁になってしまう。わが町「九条の会」にもやはり共産党の人がメンバーとして加わってきている。この問題をどのようにクリアするか? まずは大きな課題である。