Accept

先日のインタープリター講座の余韻がまだ残っている。
ので、思うことを少し。「accept」について。
 
もちろんこの「accept」は松木さんのお話に出てきた、インディアンの「accept」である。
今になって思い返していろいろと考えてみるに、
世の中のえらい人は、西洋であれ東洋であれ、また新大陸のインディアンであれ、
表現は違えども到達するところは同じ様なところなのではないか、と思う次第である。
 
西洋キリスト教では、「自分を愛するように、隣人を愛せよ」と教える。
ここでの「愛せよ」は「accept」である。
日本語で「愛せよ」を「受けれよ」に入れ替えてみても、ほとんど意味は変わらない。
キリスト教で一番大切とされるのは「人と人」より「神と人」であるから、
考え方の根本が違うのかもしれないのだが、
「人と人」について見てみれば、ただ表現が違うだけ、とは言えないだろうか。
 
東洋・仏教では「慈悲」という言葉がある。
これも「受け入れる」、それこそ何でもかんでも「受け入れる」という意の言葉だ。
こんな「慈悲」なんてのは「仏と人」の一方通行の関係だろうと言われるかもしれないが、
そうでもない。
仏教の解釈では、人は仏の部分も地獄の餓鬼の部分も同時に持ち合わせている存在とするから、
人であっても仏の「慈悲」、つまり「受け入れる」心は持ち合わせているわけである。
そして、仏教においてももっとも大切なのは当然「仏の心」つまり「慈悲 = accept」なのだ。
 
 
以上、かなり牽強付会な論を展開してしまった。
が、それでもさほど間違ったことでもないとも思ったりもする。
樵の知恵であるから、この程度のものであろう。