事故報道

尼崎で起きた列車の脱線事故。連日、テレビやなんかで報道されている。
なんともやりきれない事故で、その上、JR西日本の不祥事が後から後から出てきて、
JR西日本に対する嫌悪感が日増しに高まる感じ。
垂れ流される事故報道にどうにも違和感を拭えずにいるのだが、そのことについて少し。
 
JR西日本は、その企業風土・体質からしてまったくけしからん、と私も思う。
だが、ここ数日の報道は「バッシング」の域に達しているように感じる。
報道するマスコミの方が、これでもかとJR西日本のあら探しをしている感じ。
JR西日本の不祥事も不愉快だが、報道姿勢にも不満をおぼえる。
 
JR西日本の企業姿勢を、安全をないがしろにして儲け主義に走ったと非難する。
その非難が間違っているとはいわない。が、非難する側にその資格があるのだろうか。
事実をありのままに報道するといえば聞こえはよいが、事実といってもさまざまなものがあり、
何を報道するかフィルタリングするのはマスコミの裁量の内にある。
そのフィルタリングの仕方に視聴率至上主義が感じられる。
視聴率至上主義と利潤至上主義とは、同根のものであろう。
ともに、「自分さえよければよい」「目先だけよければよい」。
 
見ていて特にいやな感じを覚えるのは、
遺族が謝罪に訪れた者に対し怒りをぶちまけている様を報道するところである。
断っておくが遺族がけしからんといっているのではない。遺族の反応は、感情をもった人間としては当然のものであろう。
が、その様子をそのまま見せられるのは、私にはどうも耐えがたい。
遺族の怒りの感情、その感情は事実として存在するだろうが、
だからといってそれをそのまま報道してよいものか、いつも疑問に思うのである。
センセーショナル・エモーショナルならば視聴者受けするだろう、
くらいのことしか考えていないのではあるまいか。
 
以前にも、事故に遭われた方の遺族が「死刑にしてください」と記者会見かなにかで発言して、
物議をかもしたことがあったと記憶している。
この発言に対しては賛否両論いろいろ出てきたようで、それも無理からぬことだと思う。
このことは民主主義の根幹に関わる微妙な問題だからだ。
人間はさまざまな感情を持つ生き物であるから、
その感情が時と場合によっては「民主主義」を秩序付けている枠を飛び越えてしまわざるを得ないこともある。
しかし、だからといってそれを「普遍的」に認めてしまえば秩序は成り立たない。
さりとてその感情を人間として完全に否認することもできない。
このような場合、「感情」はあくまで「個別的」なものとして取り扱うしかない。
報道は広く認知させるのがその役割であるから、「個別的」に扱うべきものでも
一旦報道されてしまうとそれがどうしても「普遍的」な傾向をもつことになるのはやむを得ない。
だから報道する側の対処法としては、
このような場合は報道しない、というフィルタリングを掛けるのが望ましいように思うのだ。
 
話は結局、報道には高いモラルが求められる、といういつもながらの結論に行き着かざるをえないのだが、
私としてはこの結論もどうかと思っている。
極論で言えば、皆が高いモラルを持つことができれば、何の問題も起きようがないわけで。
思いはしているものの、この先の話はもう、私の手には余る。
では皆が高いモラルを持つにはどうすればよいか、なんて「不可能」としか答えようがない。
というわけで、人間社会の永遠の課題である、というくらいのことにしておきますか。