ジダン

世界最大のスポーツの祭典FIFAワールドカップがが幕を閉じたが、24年ぶりにイタリアが優勝したとか誰のゴールがもっともFantasticだったかなんていうことよりも、フランスの英雄・ジダンの最後のプレーがもっとも印象的なものになってしまった。
ジダンのこの「愚行」を残念がり避難する向きも多いようだが、私は...、なんとなく共感している。私が「愚樵」と名乗っているからではないのだけれども。
 
私の勝手な独断なのだけど、ジダンという人、英雄だの何だの祭り上げられるのには似つかわしくないような気がする。まあ、そう思うのは彼の苦行僧を連想させる風貌の所為なのだろうけど。
ジダンのプレーは素晴らしい。俄サッカーファンの私にもそれはよくわかる。あのようなプレーがあったとはいえ、今大会のMVPに選ばれたということからしても、彼のプレーの素晴らしさが断然輝いていたということだろう。ちなみにこのMVP選出にはちょっと驚いた。アチラの方々のバランス感覚というか、見識の高さ。日本ではちょっと考えられないような選出。
で、話を元に戻すが、ジダンの場合、彼自身が祭り上げられることをあまり好まないのではないか、と。そういうところにアイデンティティーを見い出すような人ではないような気がする。繰り返すが、これは私の偏見。偏見と断りつつさらに続けるが、そうならば、ジダンにとっては「余分」だったかもしれない「英雄」という衣装が、今回のプレーで剥ぎ取られてしまったは、ひょっとしたらジダンにとってはさほど悪いことではなかったのかもしれない。まあ、最後の試合が退場で終わってしまったのは残念で仕方がないのだろうけど。
「晩節を汚した」なんて報道もあったようだけど、何が晩節だと思う。34歳の男に向かって晩節はないだろう。そんなのは周囲の勝手な思い入れで、そういう思い入れから多少でも逃れられるなら彼の最終プレーもあながち悪いものでもなかった、と思ったりしたものだった。
 
ところが、その後の報道を見てみると、そうは問屋は下ろしてはくれなかったみたいで、ジダンの最終プレーの理由を巡ってあれやこれやと報道が過熱しているようだ。そりゃ、好奇心をかきたてられるのはわかるが...。
被害を被ったイタリアDFが暴言を投げかけた。多分そうなのだろう。その暴言がジダンにとってはガマンならなかった。で、キレた。そしてサッカーボールならぬところへ、ヘディング。レッドカードで退場。
DFの言葉がいかに許せないものであったとはいえ、それはジダンにとってのこと。ジダンにだけ、関係ある話だ。どんな言葉を吐いたのか、いろいろ憶測が飛んでいるけど、真実がわかったとてジダンにだけ関係することであるのは変わらない。
ジダンは、ピッチ上という<公>の場において<個>を優先してしまった。そしてその処断を受けた。ジダンは後悔しているだろうけど、もう、どうにもならないこと。DFの言葉が判明したって<公>が覆ることはない。ならば、<個>と<個>のことではないか。もう、放っておけばよいのに。
おフランスのお国柄は、例えば政治家の女性スキャンダルなんかにはあんまり関心を示さないような、「大人の」ものだという。私の関心はむしろ、アチラの報道がどういう様相を呈するか? 日本と比べやはり「大人」のものになるのか? その成り行きを見守りたい。