雑談

昨日は7月7日、七夕の夜であった。先だってシーズンにはまだ少し気の早い花火が7発ほど上がったようだが、七夕の日に花火というのも無粋な話。で、ちっとブログに七夕のことでも書いてみようと思っていたのだけど、別の事件で頭が一杯になってしまって、書けなかった。日も過ぎたし止めようとも思ったが、ちょっとだけ。
 
七夕の夜は織姫と彦星が年に一度だけの逢瀬がかなう夜。この日が何故、7月7日かなのかという話。
これは旧暦で考えなければならないが、旧暦というと月の運行を基にした太陰暦だから、7日というとちょうど半月。
この話には私の知るところでは2つの説がある。2つともポイントはちょうど旧暦の7月7日の頃は、月が天の川の中にあるというということ。1つは半月が天の川を横切っていくように動く*1ので、この半月を船に見立てて*2、この船に乗って2人が会うことができるのだと説。もう1つは、半月の明るさと天の川の明るさはほぼ同じなので、光が相殺して天の川が消えてなくなくなり、2人は会えるのだという説。
 
ここらをネタにゴチャゴチャと考えていたのだけど、この話はここまでにして、別の事件の方。事件と云ったって全くたいした話ではないのだが、要は久しぶりにとあるマンガに没入してしまった、というだけのこと。そのお陰で他の事が手につかなかったという、情けない話。
で、そのマンガなのだけれど、これがお恥ずかしいことにオルフェウスの窓オルフェウスの窓 1 (集英社文庫(コミック版))というかなり昔の少女マンガ。そう、かのベルばらの原作者・池田理代子のベルばらを超える名作。これに捉まってしまっていた。
 
このマンガを初めて読んだのは高校生の頃。同級生に(もちろん異性の)薦められて読んだ。ベルばらよりに先に読んだ。この読書(?)体験は、かなり強烈なものだった。少女漫画への偏見は完全に吹っ飛ばされた。これを機に他にも少女漫画を読むようになったけど、私にとってはこれを超えるものにはまだ出会っていない。
私は気に入った本はすぐに人にくれてやる癖があって、このマンガもなんど手許からなくなったか知れないが、それでも大抵は手許にあった。くれてやっても本屋で見かけるとまた欲しくなって買ってしまう。それの繰り返し。もっともこんなことが出来たのはかつての話で、今はムリ。そんなことをしたらヨメにお仕置きされてしまう。ちなみにヨメにこのマンガを教えたのは私。あろうことか、それまで知らなかったらしい。知ってからは愛読書の一つになっているようで、しばしば取り出しては読んでいるようだ。
で、私の方もシバシバ取り出して読んでいるのかというと、さにあらず。新たに購入した直した後でも読み返したことがほとんどない。いや、読むことは読むのだ。全巻必ず揃えて買って、1巻から読み始めるのだが、途中でシンドくなって放り出してしまう。全巻読み通すことが出来たのは、本当の久々のこと。いつ以来だろう? ちょっと記憶にない。ひょっとしたら高校生の頃から最後まで読み通すことをしていなかったかもしれない。だとするともう?0年ぶりか? 
 
このマンガの中で描き出されているキャラクターたちの愛憎の振幅の大きさ。舞台設定のスケールの大きさと綿密さ。そして、これでもか、これでもかと出てくる悲劇。ここからもたらされる衝撃は私にはなかなか耐え難いものなのだけど、衝撃への耐性があるならば、このマンガは人の心を惹きつけて止まないものがある。読了後、現実感へ引き戻されていくときのギャップの大きさと余韻。ここまで大きな現実との断絶感が味わえるものは、映画でもそう多くはない。
読了後の余韻については、どうも人それぞれであるみたい。妻などは、読み終えて、ああ、楽しかった、疲れた、それでおしまい、らしいのである。このあたりは私には理解できない。向こうも理解できないらしい。私はかなり引きずるなぁ。
 
今回もその「引きずった」なかでいろいろと思ったのだけど、私は先日のエントリーで「愛は愛に対する応答」であるとか「愛とは無償の呼びかけ」なんてハズカシことをかいたけど、このマンガを読んだ後だと、どうにもピント外れのようにしか思えない。そして恐らく一般的には「愛」なんていうと、このマンガに強烈に描かれているキャラたちの姿が思い浮かぶのかなぁ、とも。
実は私、このマンガはどちらかというと好きなマンガではない。いままでさんざん褒めておいて、好きではないなんて、怪訝に思うかもしれないけれど、やっぱり好きではない。心惹かれるが、好きか嫌いか、と尋ねられれうと、「好きだ」とは明確には答えられない。これは好き嫌いを超えて心を惹きつける力があるマンガなのである。
で「好きだ」といえない理由はやはり、ここで描き出されている「愛」の姿にある。とても素晴らしいように描き出されているし、また私も素晴らしいと思うが、やっぱりこの「愛」は「執着」でしかない。「執着でしかない」と切り捨ててしまうのには大変抵抗があるけれど...。私にはあの「愛」は全面的に肯定することができない。
 
私の中でこのマンガと同じような位置を占めているものがもう1つあって、それはワーグナーの『トリスタンとイゾルデワーグナー : 楽劇「トリスタンとイゾルデ」全曲というオペラ。これも「強く惹かれるけど好きではない」という矛盾した位置にいる。そしてしばしば聴くがなかなか最後まで聴き通せない、というのも同じ。
この音楽を聴き通せないのは、衝撃の強さよりも音楽の趣味の違いによるものかもしれない。この音楽の場合、ストーリー的に衝撃的なところは1点のみ。それよりも始終惚れたの腫れたのと喚きあうのに付き合うのが、なかなか難しい。この辺は古典的日本人なのか? 
 
マンガ『オルフェウスの窓』も楽劇『トリスタンとイゾルデ』も「愛」という名の執着を美しく描き挙げる。鑑賞後に余韻として残る割合は、その愛の美しさが占めるところがもっとも大きい。けれど、またこの2つには共通したものがあって、それはどちらも悲劇に終わるということ。これは悲劇だから余計に愛の美しさが強調されるという効果もあるのだが、それ以前に、こういった「愛」=「執着」はそもそもからして悲劇に終わるものなのだ、という暗示があるのもこの2つに共通している。
マンガの方は、その題名「オルフェウスの窓」そのものが悲劇への暗示になっている。まずストーリーの出だしに「オルフェウスの窓」にまつわる悲劇が語られ、その窓で出会った者たちが時代の大きなうねりの中で生命を燃焼させてのたうち回り、愛し合い、そして愛するが故に傷つけ合いながら、また大きな時代に流れの中に飲み込まれていく。
オペラの方は、その「窓」に相当するものが「愛の媚薬」である。こちらの方は、もうここからして破滅の気配が漂う。媚薬によって愛し合うことになったふたり(伴奏の音楽はふたりが薬を飲む以前から愛し合っていることを示している)が、これもまたふたりを取り巻く流れの中に飲み込まれて、悲劇へ転落していく。
 
悲劇的な愛の美しさに惹かれるのも然ることながら、そもそもこのような「愛」=「執着」はこの世に存在してはならないものだ、なんて考えてしまうは、トシをとったせいか?
 
 
あと、ニュースから気になったことを2つ。
 
ひとつは、奈良県田原本町で母子3人が死亡した医師宅放火事件について。犯人である長男が放火に至った理由が父親と勉強からの重圧とされているが、昨日は「父親と一緒の写真を持って家に出た」と報道されていた。
さもあらん、と思う。気になったのは、「写真を持って出た」ということで「父親に複雑な感情を持っていた」なんて報道されていたことで、なにをバカなことを、そういった事件を起こす少年の心情が複雑でないはずがなく、「写真を持っていた」という時点で「複雑」という報道が出てくるとは、それまでは単純なものだと考えていたのかと、なんだかやりきれない気分になった。
こういう「単純化」の傾向はどの犯罪報道にも見られることなのだけど、この事件に限って「複雑化」の方向に報道の舵が切れられたのは、裏に何か意図があってのことか? ちょっと考えすぎかも。
 
もうひとつは「明石の砂浜陥没事故:無罪判決 なぜだれも責任問われない 嘆き叫ぶ母 」というニュース。これにも違和感を持った。なぜ誰かが責任を問われなければならないのか? いや、なぜ誰かが責任を問われなければならないと考えるのか? 遺族の娘の死を悼む気持ちの大きさを察しないわけではないけれど、最初から「誰かが責任を問われなければならない」「誰か悪いヤツがいる」と決め付けてかかっているようで、どうもいただけない。そして、そういうニュアンスを報道する、マスメディア。「嘆き叫ぶ母」なんてのは余計だ。
どうもこのごろは、こういった「遺族の感情」をことさら取り上げ、扇情的に報道する傾向が目につき過ぎる。報道する側にとっては遺族の感情は激しければ激しいほどよい、といった感じ。遺族への保障をもっと手厚くとの議論には賛成だが、この保障には遺族感情を慰撫するための手当てが含まれていなければならない。これ以上マスメディア、ひいては大衆の好奇の視線に彼らを晒してはならないと思う。

*1:天球の年周運動と月の運動の差で、このように見える

*2:ちょうど下半分が光って船のように見える