9条が突きつける矛盾

北朝鮮の打ち上げた花火によって、ますます危機に瀕する日本国憲法第9条。9条の条文に顕された平和の精神は、力の脅威を背景とした戦争の論理に組み敷かれつつある。脅威は力で捻じ伏せるしかない、という力の論理。この脅威が一部の者の陰謀によって作り上げられたものかどうか、議論のあるところだが、いずれにせよ、日本に暮らす多くの者にとっては脅威は存在すると感じられているようであり、その脅威を排除しようとする力の論理がこの国を覆いつつある。
かつての無益な戦争への反省を苗床に、日本の国に花開いた平和の精神=日本国憲法第9条。この精神の限界と矛盾を、当エントリーにて愚考してみる。もとより当ブログが展開するのは「空論」である。

9条は天啓か

考えてみれば、戦争放棄を定めた日本国憲法第9条は、不思議ともいえる経緯で成立している。特に戦力不保持を定めた第2項。
ポツダム宣言の受諾により日本は敗戦、アメリカの占領下に置かれることになる。日本に君臨した、超権力たるGHQにより押付けられたとされる日本国憲法平和憲法。その平和憲法たる白眉が第9条2項である。
9条1項において示される「戦争放棄」は、当時においてもすでに目新しいものではなかった。第1次大戦後に締結されたパリ不戦条約において既に示されていたし、国際連合憲章にも謳われていた。しかし主権国家自然権たる自衛権の放棄ともいえる戦力の不保持を定める2項は、おそらくは当時の日本がおかれた特殊な状況下でなければ実現することのなかった条文であろう。
まずは、日本が国際社会で再び力を持ち得ないようにと考えたアメリカの意図。当時の日本を巡る国際情勢。天皇制の維持を望む敗戦国・日本のトリックもあったのかもしれない。しかしなによりの条件は、DHQという超権力があったということ。敗戦国といえど、日本の国が自ら憲法を定めたのであれば、国家の根幹の否定である武力の保持を否定するなどという条文が実現することはなかったはず。民主主義国家であるはずのアメリカが、民主主義的な手続きを一切無視することによって成立した条文。この条文は、超権力を依り代に下された天啓といえるかもしれない。
そしてさらなる不思議は、こうして下された天啓のタネが「一億総懺悔」という苗床で花開いたこと。GHQ経由の天啓は、この苗床があってこそだといえようか。

護憲勢力の誤り

天啓のタネから「一億層懺悔」の苗床で芽を吹き花開いた平和の精神は、これは奇跡とも云えるものであった。
国家とは、強者の論理の下に成立する制度である。主権在民の民主主義国家であっても、権力者が庶民を指導、あるいは支配する構図に替わりはない。立憲政治の成立で、この強者の論理にさまざまな制約が課せられるようになったとはいえ、国家が国家である限り基本論理に変更はない。そして国家が国家たるもっとも基本的な要素が「力」なのである。
国家は治安維持と云う内向きの「力」(=警察力)を持つと同時に、地球上に同時に存在する他の国家に対抗し、求心力を保つために外向きの「力」(=軍事力)を持つ。これら2つの力は国家にとっては欠かすことの出来ない構成要素である。であるから、国家が本来の形を取ろうとするならば、外向きの「力」=軍事力を否定する形で咲いた平和の精神の花は、花開くことがなかったはずのものであった。
しかし、花開くはずのなかった平和の花は、咲いてみればこれこそが弱者のための共栄共存の論理であった。国家が戦力=軍事力を保持しないということは、国家が起こす戦争に巻き込まれるしかない庶民からすれば、それは戦争がないということ、兵役に就くことがないということであり、これはまさしく庶民の要請するところで、この平和の論理を下に日本の国は一時期、力の論理によって奇形的に成立した社会主義国家よりも平等で社会主義的な国の形を実現させるに至った。
ところが、この奇跡ともいえる平和の花を育成すべき護憲勢力が、その育成方法を誤ってしまった。平和の精神が共栄共存の論理であることを十分認識することが出来なかったのだ。奇跡的に憲法9条に明記されたことで、かつての護憲勢力はそれをあたかもという力の論理のごとく取り扱ったのだった。
つまり9条条文を「文字通り」解釈することで、9条が成立時とは異なる情勢下で再生した軍事力(=自衛隊。国家には必然の「力」)を排除しようとした。「排除」は力の論理のものである。平和の精神には「排除」はない。平和の精神にあるのは共存共栄。共存共栄の論理を「排除」の用法で用いた結果さまざまな論理矛盾が生まれ、平和の花が実を結ぶことを妨げた。
護憲勢力と一線を画した現在の新たな護憲勢力は、「力」とも共存する方向に舵を切りつつあるが、果たしてそれが萎れてしまった平和の花に再び生命を吹き込むことが出来るか? 今、その瀬戸際に立っている。

「力」に対抗する有効手段は「力」しかない現実

現在、力の論理の信奉者たちは、その論理の武器たる「排除」をさまざまに用いて共存共栄の平和の精神の追い落としにかかっている。「一億総懺悔」の肥料が切れしまい、かつては多くの人の心の中に咲いた平和の花が萎れてしまった今、共存共栄の論理を追い落とすのは難しいことではない。
実際のところ、「力」に対抗する有効な手段はより大きな「力」しかない。これは目を逸らしてはならない現実だ。
人には自己保存の本能がある。生命としての本能だ。「力」は直接この本能に働きかける。「力」は「排除」しようとし、本能は「排除」されまいとして「力」を発動させる。暴力の連鎖である。
対して共栄共存の精神は、その効果を発揮できる条件がなかなかに難しい。条件が悪いと、より自己保存本能に抵触する。そして現代は、その条件がますます悪化しつつある。
私たちを取り巻く社会の様子を見渡してみるといい。「排除」ばかりである。資本主義の基本理念である「所有」の概念もその根本は「排除」である。新自由主義の名の下、資本の論理が我が物顔にのさばるようになり、今や世の中のどの方向を向いても「排除」「排除」「排除」のオンパレードだ。こんな条件下で「共存共栄」など唱えようものなら、それこそ排除の対象となる。
その「排除」の極限に出現する現象が戦争だ。戦争はどのように美辞麗句で飾りつけようとも、その行為は人殺し以外のないものでもない。人が為す「排除」で最大のものが殺人である。戦争ではその「排除」が何の掣肘もなしに解き放たれるのである。

平和の精神が行くべき道

ではもはや、共存共栄の平和の精神には残された道はないのだろうか? そんなことはない。というのは「排除」の跋扈が行き着く先は、力の論理による制度、国家の崩壊だからである。国家とは力の論理で支えられる制度ではあるが、それは「秩序」のためである。秩序=共存共栄ではないが、少なくとも共存の部分がないと秩序も何もなくなってしまう。
共存共栄の平和の精神はまずは「力」とも共存を図らなければならない。そして「力」を徐々に篭絡し骨抜きにしていくしか方法はない。だがこのとき、「力」を篭絡すると同時に共存共栄の精神も堕落して行ってはならない。いかなる精神であれ、堕落の果てに待つのは腐敗、そしてその精神の死である。共存共栄は気概をもったものでなければならない。

平和は生け贄を要求する!

以下のような状況を想定してみる。敵国が核兵器を搭載したミサイルを今にもわが日本に向かって発射しようとしている あらゆる情報はそのミサイルがわが国に向けられていることを示している。発射されればわが国は間違いなく甚大な被害を被り、多くの人の命が失われることになる。
こういった事態に、どのように対処すべきか?
事態がここに至っては、共存共栄の論理は役に立たない。敵が排除されるか、己が排除されるかふたつにひとつである。己が生き残るためには、先制攻撃はしかない。しかし先制攻撃は明らかに平和の精神ではない。しかしながら、己の生存を自らの意志で選択しないことに決定したとしても、これももはや平和の精神ではない。共栄共存の論理ではない。
では、平和の精神は、この事態をどうやって打開すべきか。こういった場合、平和の精神がとるべき方策は唯ひとつしかない。「死んだふり」である。
 
先制攻撃は許されない。けれども、その許されないことをやるしかない。
 
これしかない。状況が極限にまで立ち至った場合は、これしかない。ただし、許されないことを行った者を許してはならない。その者は平和への生け贄として捧げられなければならない。
平和の精神が定める法で禁じられた先制攻撃を行い、被害を食い止めた挙句、先制攻撃を指示・指揮した責任者は法によって処罰される。この者たちを、国民の生命を救った英雄として救済してはならない。あくまで法を犯した犯罪者として処罰せねばならない。
もし許さないことを実行しないなら、力の論理の勝利である。いくら平和の精神が尊いものであっても結局は力によって組み敷かれる。これでは平和の精神とは空念仏と同義語になってしまう。平和の精神を顕した法を犯した者を許すならば、精神の自己否定であり、戦争の論理に負けてしまったことになる。
多くの生命を救った者を処罰する。平和の精神、9条を守るならば、この矛盾を覚悟せねばならない。戦争と平和がせめぎ合うギリギリの局面においては、この矛盾に生け贄を捧げることでしか9条の平和の精神を守ることができない。

9条擁護はもはや宗教である

平和に生け贄を捧げる。このことは、何かを思い起こさないだろうか?
イエス・キリスト。人々の罪を救済するため、わが身を生け贄として捧げたイエス
今時は宗教というとすぐにカルトを連想する人が多いが、そもそも宗教とは特に素朴な自然信仰を超えて世界規模にまで発展した宗教は、弱者救済の精神を形にしたものである。おそらくは、大自然の苛酷な環境(=強者)に打ちひしがれる弱者を救済する知恵として編み出されたのが宗教だ。その弱者救済の論理を逆用して弱者を食い物にするのがカルトであるが、ここはカルトを論ずる場ではないからそれは措いておいて、戦争を遂行しようとする強者の論理に翻弄される戦争被害者たる弱者を救済する論理が、宗教の論理と似通ったものになるのは自然の成り行きであろう。
9条の平和の精神は、皆がその精神に従うことによってのみ実効性を発揮する「弱者の論理」なのである。強者に立ち向かうのではなく、皆が弱者になることによって弱者をなくそうとする共存共栄の論理だ。であるから当然、力を振るう強者には勝てない。強者に勝つのは強者しかない。その強者を生け贄に捧げることで維持される欺瞞に満ちた弱者の精神、これが9条の精神なのである。
私たちは、弱者の精神たる9条を「布教」していかなければならない。そして同時に、強者との戦いに捧げる生け贄も準備しなければならない。天啓に生け贄を捧げる。9条はもはや、宗教である。