愛とルール

かなり恥ずかしいタイトルなんだけど、本日はこれでいきます。やっぱり「愛国心」関連です。
 
愛国心を巡る議論の中で、再々「愛国心を法で定めるのはよくない」という指摘がなされます。なぜよくないのか? ここを考えてみたいと思います。
 
愛国心」とは呼んで字の如く「国を愛する心」。愛とは心の在り方の一形態ですから、愛国心とは「国への愛」と考えていいでしょう。
政府はこの「国」の解釈でゴチャゴチャいってますが、そんなことはどうでもよろしい。郷土であろうが祖国であろうが、政府であろうが国は国、ということでここでは話を進めます。
 
愛は報酬を求めない、といいます。愛はそれ自体が報酬だと。クサイですけど、多くの人が納得できる言葉だと思います。
例を挙げると、まず親の子に対する「愛」。まさに無報酬の「愛」です。自己の遺伝子を残すためという無粋な意見もありますが、ここではそれは考慮に入れません。
次に、異性に対する「愛」。これは報酬を求めないものか? ちょっと疑問ですね。
では郷土愛。これも報酬を求めないものか? アヤシイ雰囲気。

愛は愛に対する応答

ちょっと寄り道して愛の成り立ちについて考えてみます。
ヒトはお母さんのお腹のなかからオギャアと生まれて、その瞬間から徐々に自分と周りの世界とを分離することを始めます。「愛」にはその自分を愛する自愛と分離されたものを愛する他愛とありますが、ここは「愛国心」の話なので対象を他愛に限ります。
さて、生まれたての赤ん坊は、もうその瞬間から他愛に溢れた存在かというと、そんなことはありません。赤子は親兄弟などから「愛」を注がれて成長し、自他を分離し、周囲の呼びかけに応答するようになります。この呼びかけ・応答には親からの愛、親への愛が含まれます。子どもは親からの愛に応答して愛を育んでいきます。
異性に対する「愛」も、呼びかけに対する応答である場合が多い。最初の呼びかけのきっかけはいろいろですけど、幸福な異性愛は、互いの呼びかけに応答しあいながら高まっていく形をとります。
で、郷土愛。これも呼びかけ・応答があるのか? 私はあると考えます。ヒトは誰だって自分の生まれ育った環境・風土に影響を受けるものです。この影響を愛とするのは行き過ぎでしょうが、影響があるということは呼びかけはあると考えてもよいと思います。風土からの呼びかけにヒトが応答する。ヒトが応答する形は、これは「愛」と考えてもよいでしょう。つまり郷土愛です。
このように「愛」は「呼びかけ・応答」の形で発展しますが、ここで注意しなければならないのは、この「呼びかけ・応答」はあくまで一方向のものであるということです。呼びかけて、応答を期待することが罪とは云いませんが、強要すれば明らかに罪です。これが「愛は報酬を求めない」といわれる所以です。

ルールの場合

「愛」は一方向だということはわかりました。では法を含むルールはどうか。ルールは、その成り立ちからして双方向のものなのです。
ルール・規則の元になる概念は「契約(=約束)」です。契約は1人では出来ません。かならず相手が要ります。そしてその相手が「神」とか「みんな」になる場合もあります。これがルールです。ですからルールとは「神」もしくは「みんな」と「ひとりひとり」の契約なのです。
法となるとルールよりも厳しくなりますが、これは権力が関わってくるからです。この権力の源を「神」とすれば神権政治、「みんな」とすれば民主主義ですが、いずれの場合も代理人が必要になります。「神」はいるかどうかわからないし、また「みんな」では収拾がつきませんから。こういう代理人を権力者といいます。そして法とは権力者が一応「神」もしくは「みんな」の代理として定めるものです。
ちなみにこのルールが契約によらない場合、自分ひとりでなす場合を「道徳」といいます。これも「愛」と同じく一方向のものです。

結婚と愛国心

結婚に憧れる純真な少年少女はいざ知らず、既婚者ともなれば恋愛と結婚は全く別物だということは知悉するところだと思います。では、なぜ別物なのか? 恋愛は「呼びかけ・応答」であるのに対し、結婚は「契約」だからです。
結婚と恋愛が別物なのは、次のことからもわかります。結婚という契約を盾に恋愛を要求することが時と場合によっては非常に不毛な行為となってしまう、という事実です。純真な少年少女には気の毒ですが、これは紛れもない事実です。
なぜこのような不毛なことが起こるかというと、あくまで一方向である「呼びかけ・応答」とそもそもからして双方向が前提である「契約」との違いです。そしてこのことは、何かと似ていると思いませんか? そう、愛国心を法で定めるという行為とそっくりなのです。
権力者は愛国心を法に記述するに際して、これは強制するものではないと言います。これがウソだということは明白ですけれど、それ以前に一方向の「愛」を双方向前提の法に記述することそのものがおかしいのです。愛をルールにした瞬間に、それは愛ではなくなってしまいます。愛はあくまで一方向のものだからです。

自然な愛国心が育たないわけ

国民を愛さない国を愛せるわけがない、という声が多く聞かれます。このことについても、ひとこと。
愛は愛に応答するものだとしました。ただし郷土愛のところでちょっと条件を修正して、愛とは呼びかけに対するヒトの応答ということになりました。風土からの呼びかけに対するヒトの応答が郷土愛だと。
ここでもうひとつ、修正を加えます。どのような呼びかけにもヒトは愛で答えるかというと、それはそうではありません。ヒトを認めてくれる呼びかけに対してはヒトは愛で答えるのです。愛にはもともと「認める」という属性は含まれています。
風土はヒトを育みます。郷土愛を覚えるヒトは、郷土から認められたと感じているヒトです。残念ながらそうでないヒトもいるようですが、そういったヒトは郷土愛に目覚めることはありません。
で、今の国が国民を認めているか? 認めれていると感じるヒトもいないわけではないでしょう。それは一握りの「勝ち組」の人たちでしょうか? 大多数の「負け組」は? 私は認められているとは思っていません。