木と森、空気、それに太陽

本日のエントリーは、前回「それってバッシングじゃないの?」の続きです。タイトルはそれらしくないんだけど。
「それってバッシングじゃないの?」には、いろいろとコメントを頂きました。理解を示してくださった方もいましたが、どちらかというと「ピントはずれ」と思われた方が多かったみたいです。「ピントはずれ」と指摘してくださった方々の論理はスジが通ったものだと思いましたし、あっさり兜を脱いで降参しようかとも思ったのですけど、降参するにしても、もう少し抵抗してからにしようと、悪あがきを試みてみます。
但し、福井日銀総裁の件は省かせてもらって、「祝電キャンペーン」の方のみを取り上げます。
 
まず、BLOG BLUESさんから頂いたコメント。これは手厳しいものでした。全文引用させていただきます。

『一度に5000人が挙式を行う合同結婚式であろうが、それが彼ら一人一人にとっての晴れ舞台であることには間違いない』って、間違いだよ。『彼らが喜んで「安倍晋三内閣官房長官」からの祝電を受け取ったのなら、それでいいんじゃないの?たとえ5000人の喜びが洗脳されたものであったとしても、だ』って、そりゃよくないよ。あなたは、洗脳されちまった人間に、胸が痛みませんか。大勢の人間を洗脳して悦に入ってる人間に、怒りを覚えませんか。『祝電にイチャモンをつける人たちって、結局5000人をカルトの群れとしか捉えてないんじゃないの?だから5000人の一人一人のことになんて関心はないんだ」って、あなたの方が、関心が薄いんでないの。「バッシング」は、強きを助け弱きを挫くイジメ行為だよ。でも「祝電にイチャモン」は、そうじゃないっしょ。あなたは、ムードで物を言ってるよ。木(「祝電にイチャモン」)を見て森(「統一協会」の実体、犯罪組織と権力者の癒着)を見てないよ。

こちらのコメントは、実にズバリと私の視点の在り処を指摘しています。「木を見て森を見てないよ」ということですね。その通りです。認めます。というかBLOG BLUESさんのご指摘とは逆に、私は「祝電キャンペーン」「森を見て木を見ていない」のではないかと感じたのです。だから「彼ら一人一人にとっての晴れ舞台」と書いたのですね(タイトルの「木」と「森」がここで出てきました)。
「「バッシング」は強きを助け弱気を挫くイジメ行為だよ」という指摘もごもっともです。前回のエントリーの私の記述が明確でなかったので混乱を招いたと思うし、実際、前回のエントリーを書いた時点では自分でも上手く整理できていませんでしたが、安倍内閣官房長官は「強き」ですから彼への批判はバッシングにはなりません。ここはハッキリさせておくべきでした。
私がバッシングになるのではないか、危惧にしたのは「ひとりひとり」に対してなのです。統一協会信者もまとまった時にはパワーであり「強き」になるでしょう。ですが、「ひとりひとり」は弱き者です。彼らへの祝電へのイチャモンは、彼ら「ひとりひとり」に対してはバッシングになる、少なくとも彼ら「ひとりひとり」はそのように受け取るのではないか、と考えたのです。
河馬さんから頂いたコメントに「一般的な祝電と「政治家の祝電」は別物ではありませんか?」と指摘があり「少なくとも私自身は、自分や家族の結婚式の際に選挙区の見知らぬ政治家から祝電が来ても、とても喜ぶ気にはなれません。」とされています。全く同感です。これが私自身への祝電ならば、です。けれど、これは私たちの視点であって、彼らの視点ではありません。
河馬さんや私が「健常」であるとするなら、統一協会なるカルトに取り込まれた彼らは「病気」です(これは飽くまで比喩ですからね、念のため)。病気である彼らが健常者と同じ視点を持つという保証はないわけです。むしろ同じ視点を持たないであろうから、病気だろうと思うわけで。
「doll and peace」ぷらさんが「カルトな日々」というエントリーで、統一教会でのご自身の体験について触れられています。一部引用させていただくと、

親友に連れられて通うようになったその「聖書の勉強もさせてくれるカルチャーセンター」は、居心地のよいものだった。孤独な私を迎え入れてくれる家庭のような空間。ほんの少しの受講料を払えば、映画やビデオも見せてくれるし、学校では学びきれなかった聖書に関する「深い解釈」も教えてくれる。帰り際には松下由樹似のお姉さんが優しく声をかけてくれて、お茶とお菓子まで振舞ってくれる。他の生徒も若い男女ばかりでサークル気分。「私の居場所はここかもしれない」という思いで、通うのが楽しみになってしまった。

「私の居場所はここかもしれない」統一協会に捕まってしまった(これの表現も健常者の視点です)人たちは、居場所がなかった(少なくとも当人がそう感じていた)人たちなのです。現在も其処が自分の「居場所」だと思っている人々です。そして、彼らは自分たちが少数派ということは自覚しているでしょう。少数派ゆえの、自分の居場所を守る団結感があるだろうということは想像に難くありません。そんなところへ政府高官からの祝電。私の想像でしかありませんが、おそらくあべし個人からの祝電よりも彼らにとっては好ましいものだったでしょう。というのは、政府高官からの支持とも受け取れる祝電は、彼ら少数派にとっては「認知」と受け取ったであろうからです。「認知」は少数派にとっては生存にとって必要なことです
これは飽くまで「木」の視点での話です。「森」の視点では「大勢の人間を洗脳して悦に入ってる人間に、怒りを覚えませんか」ということになるのでしょう。しかも「健常者の森の視点」です。私だって怒りを覚えますよ。健常であれば(なくても)人生の中でもっとも喜びを感じる場面のひとつであろう結婚式を用いて、「病気」を植え込むところがカルトのカルトたる所以でしょうが、悲しくも其処へ落ち込んでいかなければならなかったひとりひとりのことを思うとき、同時にやりきれなさも感じます。「彼らが其処へ落ち込んで言ったのは、100%彼らの自己責任である」と言い放つことのできる人間がいるなら、私はそういった人間は断固として信用しません。
「ここが私の居場所である」と感じている人たち、というよりも恐らく「其処にしか居場所がなかった人たち」に向かって、「あなた達はオカシな場所に迷い込んでしまっていて、病気に罹ってしまっている。だから早く其処から立ち退くべきだ」と言ったとして、彼らがそれを素直に聞き入れるかどうか、そこに関心を寄せてもらいたい。自分のアイデンティティを否定されて、それを素直に受け入れる人間がどこにいますか。
 
「祝電キャンペーン」は、統一協会はカルトだから悪」「統一協会とあべしには繋がりがある」「ゆえにあべしは悪」という構造を持っています。「あべしは悪」という結論に、異論があるわけではなりません。森の視点から見たときの「犯罪組織と権力の癒着」にも恐怖と怒りを憶えます。ですが、出発点の「統一協会はカルトだから悪」には、全面的に同意できません。これは私に言わせれば「空気」だからです。しかも「恐怖ゆえの排除の空気」です。
彼らカルトを全体としての「森」の視点で見るのではなく、「木」の視点で見てみるとそれが必ずしも悪とは言い切れないというのが、私の考えです。ですが「恐怖の空気」がその見方を阻みます。確かにカルト集団としての彼らは怖い。それが権力と結びつくとなるなら、尚更です。ですが、恐怖を感じるかといって彼らを排除しようとすればするほど彼らは追い詰められ、彼らの生存の為に団結を強固なものにしていくでしょう。
このことの顕著な例がアメリカが主導する対テロ戦争*1グローバリズムの抑圧から先鋭化したイスラムの一部がカルトと化し*2、仕掛けたのが9.11WTCへのテロ攻撃。そこを皮切りにしての対テロ戦争。これが壮大な茶番であることは私如きが指摘するまでもありますまい。
規模はアメリカの対テロ戦争に比べればずっと小さいし、また権力との位置関係も違うけれども、「統一協会はカルトで悪」という「排除の空気」は、私たち健常者にとって望ましくない方向へ芽を孕んでいると考えるのは、私の杞憂でしょうか?
  
カルトを人間社会の一種の病気であると考えたとき、「悪であるから排除」という方法は対症療法でしかありません。「居場所のない人々」がカルトに陥る社会の大元の病巣が完治されない限り、ひとつのカルトを排除したとて、また別のカルトが出現するだけのことです。
その証拠として、かのオウム真理教を見てみましょう。あれだけの事件を起こしたにもかかわらず、未だに存続しています。この事実は健常者には理解しがたいことですが、事実は事実として受け入れるほかありません。
布引洋さんがいみじくも指摘されたとおり、統一協会は日本にとっては大切な指標」でもあるのです。日本の社会の不健全さの指標です。
 
では、社会の不健全さ、カルトという病気を根本から治癒する方法は? そんなこと、私は知りません。どなたがご存知の方があれば教えてください。
でも、ひょっとしたらと思っていることがひとつあります。先週のUTS連載コラム「麗子お嬢様みやう?邸へ行く」から引用

みやう?:そこでだ、人間はいろいろな方法を考えて、「社会」のなかにある抑圧するシステムを変えようとしてきた。抑圧するシステムというのは大概「官僚制」のように維持・保守するシステムを内包していて、これは大勢の人間が生きていくために必要な部分もあるけれど、システム「効率的」であればあるほど「均一化」させる圧力が強くなって「抑圧的」になりがちなんだよね。ところが。

麗子:ところが?

みやう?:抑圧システムに対抗するためにシステムの手法を取り入れるのが強力だという方法論でいくと、結局、抑圧対抗システムが新たな抑圧を生むというジレンマが起こりがちなのさ。例えば、ベルリン蜂起とかね。

麗子:ベルリン蜂起?なんですの、それは。

みやう?:あなたの生みの親luxemburgさんが好きなローザ・ルクセンブルクが囚われた1月のベルリン蜂起とは別の事件なんだけど、1953年6月17日に東ベルリンの労働者が、大幅な賃下げに抵抗して開始し、東ドイツ全体に広がった蜂起事件なんだ。百人以上の人々が、蜂起を鎮圧しようとしたソヴィエト軍によって殺害された。そこでは、もともと労働者の人もいたし、労働者の解放を目指して国家建設をしたはずの東ドイツの政府が結局抑圧システム化してしまって、労働条件の悪化や、効率の押し付けに抵抗して蜂起した多くの労働者を殺してしまった非常に皮肉な事件なんだけど、抑圧システムに対抗するために抑圧システムと同じ方法論で対抗することの意味を深く考えさせられる事件なんだよね。抑圧システムに対抗するのに抑圧システムと全く違うアプローチでやってみるということを、考える人が大勢生まれてきている。

麗子:それと「Under the Sun」とどういう関係があるのでしょうか。

みやう?:ずばり「Under the Sun」が生まれた意味そのものだといえるかもしれないね。人を抑圧しないで、強力な抑圧システムに対抗する実験みたいなもの。発起人の人々がどう考えているのかは会ったこともないし、よくわかんないけどさ(笑)。

麗子:「抑圧しないで、抑圧システムに対抗する」ですわね。

カルトも結局は社会の「抑圧」という病巣から出てくる症状であるわけですから、根本治療をしようと思えば「抑圧しないで、抑圧システムに対抗する」ことをするしかないわけです。そんなことが出来るのかって、私には分かりませんが、試みとしてはとても画期的で面白いです。それに、<Under The SUN>、太陽の下では「森」も「木」もないでしょう?
 
尻切れトンボだけど、太陽が出てきたところで、おしまい。

追記

あべしへの追及は、もっともっとなされてしかるべきだと私とて思います。「祝電キャンペーン」の意義を否定するつもりは毛頭ありません。けれど、カルトとそこに繋がりのある政治家を断罪するという大きな流れの中で、取り残されていく小さな存在を無視しないで欲しい。そう思うのです。
大きな流れの中で小さな者が無視されていく。これは私たちが日々実感していることではないですか? 国の施策は「森」の視点で行われます。私たちのいつもそこに異議を唱えているはずです。「弱者切捨て」だと声高に反対を叫んでいませんか?
その私たちが、私たちよりもより弱い存在であるところの者、健常な社会に居場所を見出せず異常なカルトの中にしか居場所を見出せなかった者たち、この者たちを無視するならば、私たちの「弱者切捨て」への反対運動はその普遍性を失ってしまいます。「弱者切捨て」といっても実は自分たちの利益を誘導しているに過ぎないことになってしまう。これでは欺瞞です。それでいいのですか?

*1:正太夫さんの「山本七平流の日本特殊論」というご指摘。単なる枕くらいのつもりが教養のないところを暴露されてしまいました。「空気」アメリカにだったあるみたいです

*2:この視点そのものの疑義があるがここでは措く