浅田真央とモーツァルト

見るとはなしにTVを見、チャンネルをあちこち探っていると、BS1でフィギア・スケートを放送していた。グランプリ・シリーズ2005の中国大会の再放送。やっぱり注目は浅田真央
この子は今や人気者だから、解説は必要ないだろう。私もこの子のフィギアはとっても魅力的だと思う。
 
今日のエントリーはタイトルが「浅田真央モーツァルト」。要は浅田真央モーツァルトのような天才だ、っていうことなんだけどね。

「子供が高度な表現技術を持ったらどうなるか?」という答えの模範解答が、モーツァルトだと、私は考えている。彼は当時の音楽技法を片っ端からマスターしてしまった、桁外れの神童だったというのは有名な話。幼くして最高の音楽表現技法を身に付けた彼は、何を表現したか? “子供の心”を表現したのではないか、と私は思う。
例えば、K.136のディベルティメントとか。エクスルターテ・ユビラーテのアレルヤとか。楽しく爽やか、天真爛漫な音楽。

天真爛漫とは、浅田真央のスケートにも当てはまる。伸びやかで、彼女自身がとても楽しそう。15歳の若さで、世界最高レベルの技術を身に付け、その技術を駆使して滑る姿が、とても素直。
 
でも、思う。ひょっとしたら、浅田真央は今が最高の姿なのかもしれない、と。だれだって、いつまでも子供のままではいられない。スケートの技術はさらに修練を積み重ねて磨きをかけていくだろう。だが、汚れなき天真爛漫な心というのは、やはり、子供の特権であって、彼女だって、これから大人になっていく過程の中で、それは失われていくだろう。それが当たり前のこと。
 
モーツァルトは幼き頃の神童から、長じて真の天才へと昇華していった。その過程でモーツァルトの内面でどのような葛藤があったのか、凡人には窺い知ることは出来ないが、真の天才となってからの彼の作品に、その深淵が垣間見えるような気がする。
 
浅田真央はどうなっていくのだろうか。純真なままでいて欲しい、とはおそらく贅沢すぎる希望だろうが、せめて“昇華”していって欲しいと思う。これですら、高すぎる望みだろうか。
 
もうひとり、私が好きなフィギア・スケートの選手について触れておく。それは村主章枝。表現の技法も内容も、ひとつひとつ積み上げていくような彼女のあり方に好感を持つ。
おしん的”と評される向きもある彼女だが、“浅田真央モーツァルト”の伝で行けば、村主はさしずめ、ブラームス