続きの続き

さて、裁判についてでした。「世の中はでたらめ」ということでいけば、立法とか政治とか、そちらの方から入っていくのがホントかなと思ったりもするのだが、これらはあんまりにもでたらめ過ぎて、私ごときの思考回路には容量オーバーなのである。
まあ、そもそも自分のでたらめさを棚に上げて、「世の中はでたらめ」なんて偉そうなことを発言すること自体が容量オーバーなのだが。
 
裁判は、世の中で起きるでたらめな事柄、でたらめな紛争を裁定するという機能を持つ。そういうわけだから、裁判で裁定を行うにあたってはでたらめなことがあってはならないわけだ。もし、裁判がでたらめに行われたということになると、誰も裁判など信用しなくなり、秩序は崩壊してしまう。
では、本当に裁判にはでたらめはないのか。裁判官も人間なんだから、なかにはでたらめなヤツもいるよ、っていうようなことではない。裁判という制度、裁判官のありかたそのものに、でたらめがあると私は思っている。
 
裁判官は「法と良心にのみ従い、公正な裁定を下す」べきだとされている。これは一般には司法の独立を規定したで、また法治主義における裁判の理念の根幹部分なのだが、ここにこそ私はでたらめの素があると思う。
現代の裁判では、裁判官はまず法に縛られる。法治主義ということであるから当然なのだが、まずこの法からしてでたらめなのだが、まずこれは措くとよう。で、次に裁判官は、法の定めに従って、というより法に定められた範囲のなかで裁定を下していく。この時に裁判官が拘束されるのが、「己の良心」というわけだ。
例えば、ある人間が殺人を犯したとして、裁判にかけられているとする。裁判官は、殺人などの刑事事件の場合だと刑法に定められている範囲の中で、無期刑か死刑か、懲役何年にするのか執行猶予はつけるのか、それ以前にも本当に被告は罪を犯しているのか、「良心に従って」裁定しなければならない。では、「良心」とは何ぞや? 「良心」があれば真実で公正な裁定が下せるという根拠はあるのか? そんなでたらめな話はなかろう。
裁判官が如何に素晴らしい良心の持ち主であるとて、その良心と事実認定や量刑の判断とは直接には何の関わりもない。私が中学生の頃に持った疑問と同じ構造がここにもある。「犬 → dog」の間の→に何の法則もないのと同様、「良心 → 事実認定」の→にも何の法則もない。
 
困った。まだまだ続きそうだ。