世の中なんてそもそもからして、でたらめに出来上がっている

近藤淳也の新ネットコミュニティ論「世の中はでたらめな仕組みで動いている」を読んだ。この記事に触発されて考えたことを。

僕はなぜか、「世の中は誰かが適当に作ったとんでもなくでたらめな仕組みで動いている」という世界観を持っています。

と近藤氏。私は、“なぜか、〜という世界観をもっています”という表現、つまりこのような考え方をしていることが何か特異なことのように表明されていることに、ひっかかりを覚えた。確かにこのような考え方をしている人は少ないらしい。
この記事を紹介しているMy Life Between Silicon Valley and Japanでもそのように指摘している。私自身もどうやらその少数の部類に入っているようで、そのことについての自覚は持っていたつもりだった。だが、このように私と似たような考え方をする人が「自分は少数派」と表明しているのを見ると、自分が少数派だということのもう一段の自覚を迫られた感じがして、ひっかかったのである。
 
さて、近藤氏と似通った私の世界観であるが、これは似通っているが全く同じではない。まあ、これは当然のことであり、そしてまたそれが当然であるが故にこそ、私はこの世の中はそもそもからして、でたらめに出来上がっていると考えている。このことについての話を、私も近藤氏にならって自分が中学生の頃の経験から始めてみたい。
 
漠然として記憶になってしまうが、子供の頃の私は、

世の中は遠い過去からこれまで人類の英知が作り上げてきた精巧な仕組みで動いていて、現時点での最適解になっている

というような世界観をもっていたような気がする。大人は尊敬でき、その大人たちの作り上げた社会の事柄には全て、それなりの理由があってなされているものだと素朴に信じていたように思う。この信仰は成長するにつれて崩れ、今では全く正反対の世界観をもつに至ったわけだが、思い返してみるに、素朴な信仰が崩されたと自覚した最初の経験が、中学生から始まった英語学習であった。
 
英語学習はまず英単語を覚えることから始まる。
犬 → dog、猫 → cat、馬 → house、という具合に頭から覚えこんでいかなければならないわけだが、この英単語の暗記に私は躓きを感じた。なぜ、いちいち英単語を覚える必要があるのか? その当時の私の世界観からすると、日本語と英語の単語を繋ぐ、何か合理的な規則があるはずだった。つまり、「犬 → dog」の「→」は関数になっていて、この関数を解き明かしさえすれば「犬」という日本を入力すれば「dog」という英単語が出てくるはずで、そうすればいちいち英単語を丸暗記する必要がなくなり、簡単に英語学習が出来ると考えたのだ。
このことを私は両親に話をした。「英単語がわからない」と。「憶えられない」のではなく「わからない」。だが、両親には私の「わからない」がわからなかったようで、それでも私の英語の成績を心配してくれて、当時発売になったばかりの英訳機なるものを買ってきてくれた。これは確かシャープの製品で、現在の電子辞書の最も古い型のものだったと思う。この英訳機を渡され、「これで勉強しなさい」と言われた私は「トンチンカンだ」と思いはしたものの、せっかくの両親の心配を無にすることも出来ずに黙って英訳機を受け取った。ちなみに、英語の教師には、なぜだか恥ずかしくてそんな話はできなかった。
両親には理解してもらえなかったが、それでも英語の勉強を続ければいつか「→」の規則がつかめるはずだと考え、英語の勉強を続けたわけだが、いつまでたってもそんなものは見つからなかった。後に、シニフィエだの、ラングだの、パロールだのという術語でもって言語学なるものを知るようになり、やっと「→」に規則など存在しないと理解するようになった。それどころか、英語そのもの、日本語そのものも、その成り立ちはでたらめに生まれたもので、また何かのモノや現象を指す言葉すらも、境界があいまいなでたらめなものだと知ることになった。
かくして、社会のルールを規定している言葉も実はその根本では、でたらめなものだと思い知らされることになり、私は自分の世界観に修正を加えなければならなくなったのだった。

...続きは明日